日本人の心

考えさせられる文章に出会いましたので、一部を抜粋し、紹介します。

日本では、・・・・・。「もったいない」が日本の心として世界に評価されていますが、実はびっくりするほどもったいないことをするのも日本人です。浄(じょう)、不浄の区別、清らかなものと清らかでなものとしての穢れの発見が、あらゆるものに対極性を持たせる観念を、深く根付かせたのでしょうか。

輝く光は、深い闇を作るものです。物事に尋常ではない清らかさを求めるがゆえに、闇が現れて、両極の二面性が表裏にあることを無意識のうちに感じ、無意識の行為として、その両方を当たり前におこなってきたのです。

今、私たちは、自分たちの内にある両面性を認め、目を伏せず、当たり前でないものとして意識的に考えることで、稀有な日本人の高貴性を失わず持ち続けることにつながると考えています。

和食の料理は濁りを嫌って、きれいに澄むことが大事です。

物事がうまくいけば、「すみ(澄み)ました」といい、うまくいかなければ、「すみ(澄み)ません」と謝ります。

・・・食材の中に隠れていた真性を、アクを抜くことで澄ませ、際立てることは、日本人が最も好むおいしさの表現となっています。だから、キレ味(後口がよい)、すっきり(雑味のない)、軽み(重くない)といった和食の味の表現は頻繁に用いられ、よく耳にするのです。

一本の木から仏像を彫り出すことはマイナス的彫刻と言われ、粘土を加えて造ることをプラス的彫刻と言います。そう意味では、和食はマイナス的料理です。アクを抜くことで、ときに味も栄養価値も失うことになるのですが、完全でないにしろ、無味化することを喜ぶのです。澄んだだしを尊ぶのは、無味化したものに、うま味という味の質感を補うという考え方です、味蕾で感じる味の不足は「目で食べる」という視覚や、触覚で充分に補われているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「一汁一菜でよいという提案」著:土井善晴より

モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。 (出エジプト記32章15節)