私たちの教会

三田キリスト教会のホームページへようこそ
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兵庫県三田市にあるプロテスタント教会です。

三田キリスト教会のホームページを見ていただき、感謝いたします。
このホームページは三田キリスト教会の公式ウェブサイトです。
毎週土曜日には、神様に感謝し、祈りをささげる礼拝を行っています。
キリスト教に興味のある方、聖書に関心のある方、どなたでも歓迎いたします。

「だれもひとりぼっちにならない教会」
そんな家庭的なあたたかな愛の交わりがここにはあります。
どなたでも、お気軽にお尋ねください。
心より歓迎します。

教会は地上における神の家族であり、互いに仕え、学び、礼拝します。
教会は、その指導者であり、贖(あがな)い主であられるイエス・キリストに頼りつつ、
救いの良き知らせをすべての民に伝えるよう、召されています。

現代人は、混乱した激流の中で心が疲れ、生活の不安が心と体を消耗させています。2000年前、現代とよく似た社会状態にあえぐ人々に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)と仰せになったイエス・キリストの言葉は、今を生きる私たちにも力強く迫ってきます。キリストは私たちの確実な心の拠り所であり、賢明な足場となり、疲れた心と体に潤いを与えてくれます。

私たちの願いは・・・
私たち一人ひとりが聖書を通して、また教会を通して体験したイエス・キリストとの出会い。それは言葉では表しようもないほどの大きな喜びであり、たとえようのないほどの深い感動に満ちてます。求めさえすれば、イエス・キリストは、いつでも私たちのそば近くに寄り添い、包み、励まし、力を与えてくださるのです。
その恵みを受けるための条件は何もありません。あなたが今どんな人生を歩まれていても、どんな境遇にあるとしても、ただイエス・キリストを求めさえすれば、あなたのそばに寄り添い、歩みを共にしてくださいます。それは、正に喜びの歩みであり、希望と力にあふれた歩みです。

セブンスデー・アドベンチスト三田キリスト教会・聖書研究会(以下、三田キリスト教会という)は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。

三田キリスト教会は、聖書に示されている神の愛(アガペー)による救いを全人類に伝え、その愛を、人々の必要に応えるさまざまな活動を通して実践しようとしています。

「セブンスデー」とは、「第7日」の意味で、これは週の第7日である聖書の安息日を聖日として守る教会であることを表しています。
また「アドベンチスト」とは、聖書の重要な教えである、キリストの再臨(アドベント)を待望する人たちを意味しています。

特に宗教改革(贖宥状〈しょくゆうじょう ※1〉に対するマルティン・ルターの批判がきっかけで起こった、16世紀のキリスト教世界における教会体制上の革新運動で、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。)以来、プロテスタントの教えの中心となっている、聖書を信仰と実践の規準とする立場や、人が救われるのは、信仰のみによるという主張は私たち、三田キリスト教会の最も基本的な教えです。

三田キリスト教会では、次のようなミッションステートメント(指針)を掲げています。

世の光として
疲れた人、重荷を負う人が安らぐことができ、主イエス・キリストのご再臨に備えるために、それぞれの賜物〈たまもの〉を生かして互いに助け合い向上する、神の家族のような教会を目指します。

聖書「マタイの福音書11章28~30節」には、次のように書かれてあります。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

カトリック系の教会が豪華絢爛なイメージに対して、プロテスタント系の教会は特徴として十字架があるのみで簡素です。

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
(テサロニケの信徒への手紙一 5章 16~18節)

キリスト教に興味のある方、聖書に関心のある方、どなたでも歓迎いたします。
みなさまのお越しを心よりお待ち致しております。
所在地を見る

三田キリスト教会の2Fから見た三田旧市街 自然と人が共に暮らす素晴らしい風景が広がる

キリスト教(三田キリスト教会)では、あくまでも個人の主体的な考えを尊重し、強制的な手段を用いたり、本当の名前を隠しての勧誘など、判断を鈍らせるような方法を取ることを一切否定しています。
また、指導者の考えを一方的に押し付けたり、感情に訴えるような方法を取ることも否定しています。

多様性(diversity、ダイバーシティ)を重んじる
「多様性」とは、「いろいろな性質の異なるものが存在すること」「相違点」をいいます。「組織」での多様性とは「いろいろな人材を活かす戦略」をいい、さまざまな違いを尊重して受け入れ、積極的に活かすことです。そして、変化しつづける環境や顧客ニーズに最も効果的に対応し、優位性を創り上げていくことをいいます。
私たち人間には、それぞれ個性(特徴)があります。多様性の観点から言えば、その違い(性別や人種、宗教、思想、学歴・・・)をお互いに認め、それを活かすことで、社会がより発展していくのです。
当然、教会にもこの多様性の考え方が大切であることは言うまでもありません。一方的な押し付けや考え方では、教会の将来や発展はないのです。

※1:16世紀、当時のカトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書5章3節)

Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven. (MATTHEW5:3)

神の言葉である聖書は、躓きやすく弱い私たちにいろいろなことを教え、導いてくれます。

一般的に「心が貧しい」を辞書で調べてみますと、「度量が小さい、しみったれている、満たされていない」という意味で、あまり使いたくない言葉です。しかし、この「幸いである」と言われている「心の貧しい人」とは、そのような人たちを言うのではではありません。

この「心が貧しい」という言葉は、ギリシア語聖書では「自分を過信して傲慢にならない、打ち砕かれた謙遜な心をもつ人」(直訳では、「霊において貧しい人々」=自己の人間的貧しさに気付いている人々)を意味しており、「自分の貧しさを知る人」とも訳されます。「心が貧しい」とは、自分の弱さや限界のことを表しているのです。誰にも言えないような過去の愚かな失敗や過ち、痛みに苦しむ自分、闇を抱えた自分、思うとおりにならない自分・・・、それらが「心(自分)の貧しさ」です。

イエス・キリストは、そのような私たちに、「そういう心(自分)の貧しさを知る人は幸いである」と言われます。イエス・キリストは、「自分をごまか(誤魔化)すことなく、逃げることもなく、そんな自分と向き合うことのできる人、そんな自分を知ることができる人は幸せだ」といっています。

本当の自分から目を背け、逃げ続けるような人生には絶対に成長はありません。自分の弱さを嘆くだけの、そして自分を裁くだけの人生にも成長はありません。私たちは、なくしたものを探し、数えるのではなく、今あるものに目を向け、そして、そんな自分を正直に受け入れ、自分が今なすべきことに真摯に向き合っていくことが大事だとイエス・キリストは言われているのです。(20180910土師萌)

セブンスデー・アドベンチスト教会とは?