エルサレム攻囲戦(ユダヤ戦争等)

ユダヤ戦争(AD66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間の戦争で、ユダヤ属州総督のローマ人フロルスがエルサレムの第二神殿の宝物-17タラントの金:17×6000ドラクメ〈1ドラクメ=1日の日当〉/タラントン≒1億円-を奪ったことに端を発している)の時、反ローマの暴動の中核をなしたのは、熱心党(Zealotry)と呼ばれる人たちであった。

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▶熱心党とは

❶ユダヤ戦争(帝政ローマ期のAD66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争で、ユダヤ属州総督のローマ人フロルスがエルサレムの第二神殿の宝物(17タラントン-17×6000ドラクメ〈1ドラクメ=1日の日当〉/タラントン≒1億円-の金)を奪ったことに端を発している)の時、反ローマの暴動の中核をなしたのは、熱心党(Zealotry)と呼ばれる人たちであった。ヘブライ語で「カーナイーム」、ギリシア語で「ゼーロタイ」(熱心な人々)という。

❷ローマはユダヤを直接支配下に置き、徴税組織を整備するためとユダヤ人の財産を査定する目的でAD6年(ルカによる福音書2:2:キリニウスはAD6年、シリアの総督になった)に住民登録(人口調査)を実施した(同2:1)。これに対し、唯一の神のみを支配者とするユダヤ人が、ローマ皇帝に納税することは決して許されないと武力で反乱を起こしたのが熱心党であった。

❸熱心党は、教養というより、律法を守ることを優先し、それが侵された場合は武力で抵抗する考えを持つ教派であった。彼らは神より与えられた救済を考えていたが、この救済をもたらすためには神は人間の協力を頼りにしていると確信していた。勝利するためには暴力の使用を認め、戦いで命を失うことは神の名における聖者になるための殉教だとした。

❹熱心党運動のイデオロギー(思想傾向、社会等に対する考え方)は、ファリサイ派の中から生じた過激な行動理論であった。熱心党は、ユダ※2を中心としたガリラヤ派と、ザドクを中心としたエルサレム派の二派があった。

❺特に熱心党の中で最も過激な暗殺者集団は、「ガリラヤの短剣党(シカリー派Sicarii)」(四千人の暗殺者:使徒言行録21:38)と呼ばれ、常に懐に短刀(シカ:ラテン語)を忍ばせ、反対派を暗殺した。

❻また、激烈な内部抗争もあり、各派閥間の関係も複雑であった。後、民衆の支持を受けた熱心党のゲリラ活動が激化、社会の秩序と治安は失われ、ユダヤは無政府状態に陥った。

❼熱心党の人々が暴力を正当化した根拠は、民数記25:10~11にあるとしている(歴史によればあまりに過激すぎるのでエルサレムを追放され、略奪や集団虐殺を繰り返して辺境地帯をさまよい、AD73年の春、マサダの戦いで殲滅したとされている)。「ユダヤ戦記」および「ユダヤ古代史」の中で、著者フラウィウス・ヨセフスは、熱心党は過激すぎて、古代イスラエル王国を消滅させた元凶であると記している。
→民数記25:10~11
主はモーセに仰せになった。「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。」

※2:その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こした(AD6)が、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた(使徒言行録5:37)。