武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり

この言葉は、「葉隠」※1の中で特に有名な一節で、誰もが知っています。

そして、次のように解釈できます。
「武士たる者は主君のためには、自分のことは横において、死ぬことも覚悟しなければならない」と。

一見、物騒にも思えるこの言葉は、「葉隠」の「聞書※2一」に記されています。

武士道と云は、死ぬ事と見付たり。・・・略・・・毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。」※3

・死 身=死んだ気持ちで取り組む
・仕果す=うまく行く

つまり、「毎朝毎夕、いつも死ぬつもりの覚悟で忠君に仕え、行動していれば、武道に自由を得ることができ、一生落度なく家職を全うすることができる」と解釈できます。

忠君は別として、「ボーっと生きてんじゃねーよ」と、いつもチコちゃんに叱られている我が身には、この「葉隠」の言葉は、今の世を生きて行くのに必要な言葉だと改めて思いました。(土師 萌)

※1:はがくれ(=葉可久礼、葉隠聞書)
江戸時代中期に書かれたもので、肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた(全11巻)。

※2:人の話を聞きながらその内容を書きとめた書

※3:武士道と云(いう)は、死ぬ事と見付(みつけ)たり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付(かたづく)ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。圖(ず)に當らず、犬死などいふ事は、上方風(かみがたふう)の打上(うちあがり)たる武道なるべし。二つ二つの場にて、圖に當るやうにする事は不レ及(およばざる)事也。我人(われひと)、生(いく)る方がすき也。多分すきの方(かた)に理が付(つく)べし。若(もし)圖に迦(はず)れて生(いき)たらば、腰ぬけ也。此境(このさかい)危(あやう)き也。圖に迦れて死(しに)たらば、氣違にて恥には不レ成(ならず)。是が武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々(しにしに)、常住死身に成(なり)て居る時は、武道に自由を得、一生落度(おちど)なく家職を仕課(しおお)すべき也。 ~葉隠 聞書一~

(底本)国立国会図書館蔵『葉隠』(山本常朝述・田代陳基記・中村郁一編、東京:丁酉社、明治39年)

使徒言行録21:13
そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」