キリスト教とキリスト教系の諸教団

(1)日本への伝道
キリスト教の日本への伝道は、天文18(1549)年、ローマ・カトリックのイエズス会の宣教師F・ザビエル(1506 〜1552)の来日に始まる

豊臣秀吉はキリスト教の信仰を禁じたが、17 世紀初頭には、数十万人の信者がいたといわれている。

徳川幕府も徹底した弾圧を行ったため、キリスト教徒は全滅に等しい状況となった。

日本へのキリスト教の本格的な再布教が準備されたのは幕末の頃であった。諸外国は日本の開国を求め、日本国内に公館(大使館・公使館・領事館)を建て始め、同時に宣教師たちの日本上陸が始まった。

ローマ・カトリックでは、安政5(1858)年に、パリー外国宣教会のジラール神父が日本知牧に任ぜられ、翌年、フランス総領事館付司祭兼通訳の資格で江戸に入った。1859年、ジラール神父は横浜居留地80番(現 山下町80番)に最初のカトリック教会を献堂し、聖心教会と名付けた(後に移転し、山手教会として 現在 司教座聖堂)。この教会には、連日多くの日本人が見物に詰めかけ、総数1万人にも及んだと言われます。なかには宣教師と言葉を交わしたり、教えを求めたりする人々もいました。しかし、まだキリシタン禁制下だったので、1862年には、このうちの33名が捕縛され、牢に拘禁されるという事件が起きました(横浜天主堂事件)。

文久2(1862)年には横浜に、元治2(1865)年には長崎の大浦に天主堂が建てられ、長崎に上陸したベルナール・タデー・プティジャンは潜伏していたキリシタンを発見した(→ベルナール・タデー・プティジャン(フランス語:Bernard-Thadée Petitjean, 1829年~1884年)は、フランス出身のカトリック宣教師で、パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげた。1865年、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名である)。

ギリシア正教会では、安政6(1859)年に箱館にロシア領事館が設置され、聖堂も建てられた。文久元(1861)年にはロシアの修道司祭ニコライが領事館付司祭として赴任した(→神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した)。

一方、プロテスタントでは、まず安政6(1859)年にアメリカの監督教会(聖公会系)、改革派教会(カルバン派系)、長老教会(カルバン派系)からの宣教師・牧師が、それぞれ長崎、神奈川へ上陸し、外国人居留地を中心にキリスト教の伝道や教育が行われ、明治5(1872)年には横浜にプロテスタント初の日本基督公会が設立された。

こうしてキリスト教の日本への布教が再び始まったが、明治新政府は、当初キリスト教を禁止する政策を取り、明治元(1868)年切支丹邪宗門禁制の高札※1を掲げた。

しかし、条約改正とからんだ国際世論の前に、明治6(1873)年ついにキリシタン禁制の高札を撤去するにいたった。この高札撤去はキリスト教の公認を意味するものではなかったが、実質的にはキリスト教の布教は黙認されることとなった。このようにして、キリスト教各派の布教活動が一層拡大されていった。

※1:「五榜の掲示
第一札:五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)や憐れみの推奨と悪業の禁止、
第二札:徒党・強訴・逃散(集団で謀議を計ること)の禁止、
第三札:切支丹・邪宗門(切支丹邪宗門禁制)の禁止
第四札:明治新政府独自の万国公法の履行と外国人殺傷の禁止、
第五札:古代律令制の復活を彷彿とさせる脱籍浮浪化に対する禁止。
→第一~三札は、徳川幕府の統制や弾圧をそのまま踏襲している。

プロテスタントのうちルター派は明治25(1892)年、アメリカ南部一致ルーテル教会が伝道を始め、日本福音ルーテル教会を組織し、同28(1895)年にはフィンランド系も伝道を開始した。
カルバン派はプロテスタントでは最も早く伝道を開始し、日本基督公会を設立したが、明治10(1877)年に日本長老公会と合同し日本基督一致教会を設立、明治23(1890)年には日本キリスト教会と改称した。

会衆派では、アメリカン・ボード(北米最初の海外伝道組織)の宣教師らによって宣教が進められたが、明治11(1878)年、関西の9 公会が日本基督伝道会社を設立、明治19(1886)年に日本組合基督教会が結成された。

バプテスト派では、アメリカのゴーブルやブラウンによって伝道が開始され、明治6(1873)年、横浜に第一浸礼教会が設立された(北部バプテスト系)。また、明治22(1889)年からは南部バプテストの伝道も始まり、両派は協議して日本の伝道区域を東西に分け、東部は北部バプテスト、西部は南部バプテストの分担とした。

メソジスト派では、明治6(1873)年にアメリカ・メソジスト監督教会とカナダ・メソジスト教会の宣教が始まり、この二者にアメリカ・南メソジスト監督教会系が加わり三者が合同して、明治40(1907)年に日本メソジスト教会が結成された。

(2)キリスト教系諸教団
昭和15(1940)年に「宗教団体法」が施行されたが、この法律の施行に当たってキリスト教で宗教団体たる教団となったのはローマ・カトリックの日本天主公教教団プロテスタントの日本基督教団であった。日本基督教団はプロテスタントの日本布教の初めからあった超教派主義的な合同教会的性格の教団(日本聖公会の一部とセブンスデー・アドベンチストを除く)でほとんどの教派がこれに参加したが、個々の教会の中には参加しないものもあった。

昭和20(1945)年、宗教団体法に代って「宗教法人令」が施行され、各教派は新たに独自の教団形態を目指す道が開かれた。プロテスタントでは、宗教団体法当時の日本基督教団に所属していた教派の中には、日本基督教団に留まるものも多かったが、この教団から分離し、独自の教団を形成するものもあった。また、新たに布教を始めた教団も少なからず存在した。

ローマ・カトリックは、宗教法人令により天主公教教区連盟となり、さらに昭和26(1951)年からの宗教法人法によりカトリック中央協議会となり、今日に至っている。

現在は全国を16 の独立した司教区(札幌、仙台、新潟、さいたま、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、広島、高松、福岡、大分、長崎、鹿児島、那覇/東京、大阪、長崎:大教区)に分け、司教を中心として自主的に運営がなされている。また、司教区を超えたローマ・カトリック界の全国的な活動について協議する日本カトリック司教協議会が設置されている。

ギリシア正教会系の教団として、日本ハリストス正教会教団がある。日本ハリストス正教会教団(ハリストスとはキリストのギリシア語読み)は、戦後には在米ロシア正教会と連携して活動したが、昭和44(1969)年モスクワとの関係を回復し、同45 年自治教会として正式に認められた。同教団では、全国が三つの主教教区に分けられ、東京復活大聖堂(ニコライ堂)が首座主教座聖堂となっている。

プロテスタントの最大の教団は日本基督教団である。同教団は、日本基督教団の従来の合同教会としての理念を継承し、現在でも宗教団体法下の日本基督教団を構成した教派の多くを包含している。同教団は、教団総会を最高の政治機関とし、教会の運営については教会総会があり、会議制を採っている。教団は昭和29 年には信仰告白及び生活綱領を定め、昭和44 年には沖縄キリスト教団と合同した。

英国教会系では日本聖公会がある。日本聖公会は明治20(1887)年2 月に全国の教会を組織した教団結成を決めていたが、第2 次大戦中に教団組織を解体させられた。昭和20(1945)年12 月改めてその機構を復活して今日に至っている。日本聖公会では、全国を11 の教区に分け、それぞれ主教をおいている。ローマ・カトリックと同じく聖公会の教区も独立しており、教区内の事柄は主教を中心として運営されている。日本聖公会は、首座主教のもとに一つの管区を構成し、他の管区の干渉を受けずに主教を叙任し、総会で全てを決定する。

日本基督教団、日本聖公会以外の主なプロテスタントの教団を列挙すると、
まず、ルーテル派では、日本福音ルーテル教会(アメリカ一致ルーテル教会系を中心にフィンランド系の福音ルーテル教会等が合同)が最大のものであり、日本ルーテル教団(アメリカ・ミズーリ派ルーテル教会系)、日本ルーテル同胞教団(アメリカ・ルーテル同胞教会系)、などがある。

カルバン派では、日本キリスト教会、日本キリスト改革派教会、カンバーランド長老キリスト教会日本中などがある。会衆派は日本基督教団に合同している。

また、メソジスト派の教会の多くも日本基督教団に合同しているほか、日本自由メソヂスト教団(ホーリネス系)などがある。

メソジスト (Methodist) とは、18世紀、英国ジョン・ウェスレーによって興されたキリスト教の信仰覚醒運動およびその運動から発展した。プロテスタント教会・教派に属する人々を指す。ミッションスクールとしては、日本では西の関西学院大学、東の青山学院大学が著名である。

バプテスト派には多くの教団があり、中でも日本バプテスト連盟(南部バプテスト系)、日本バプテスト同盟(北部バプテスト系)のほか、日本バプテスト・バイブル・フェローシップ(ファンダメンタル・バプテスト教会系)、日本バプテスト教会連合などがある。また、ホーリネス系としては、日本ホーリネス教団(旧聖教会系)、基督兄弟団(旧きよめ教会系)、イムマヌエル綜合伝道団、東洋宣教団(旧称・東洋宣教会きよめ教会)などがある。

(3)キリスト教界の戦後の動き
現在、日本のキリスト教界には❶日本キリスト教連合会(略称・日キ連)や❷日本キリスト教協議会(略称・NCC)などの教団・教派を超えた組織がある。

日本キリスト教連合会はカトリックとプロテスタントによる団体で、法人事務の向上を図るために相互に研修し、親交を深めること、また憲法に定める信教の自由と政教分離の原則に基づき、全キリスト教会の信仰による良心の自由と共通の利益を守ることを目的とし、公益財団法人日本宗教連盟の協賛団体ともなっている。

日本キリスト教協議会はプロテスタントの教会(教団)とキリスト教関係団体によって構成され、加盟団体のキリスト教としての一致をもとめるとともに、平和、人権問題などに取り組んでいる。

戦後、聖公会などプロテスタント教会を中心に進められてきたエキュメニズム(教会合同運動あるいは世界教会運動)は1960 年代になると、カトリック教会が第2 ヴァチカン公会議以降、積極的な姿勢を打ち出したこともあって、大いに進展した。その一環として昭和53(1978)年にはカトリックとプロテスタントの協力によって『新約聖書共同訳』が刊行され、昭和62(1987)年には旧約聖書も含む『聖書新共同訳』が刊行された。

参考:宗教年鑑 令和元年版(文化庁 編)
キリスト教における教派等     ©H.Taniguchi