コンスタンティヌス1世の策略とローマ教皇の地位

▶ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス、在位:AD306~337年)は「(教会)監督の中の監督」と自称しながら最後まで異教の教会の頭の大祭司の称号である「ポンティフェクス・マクシムス Pontifex Maximus」を好んで使用した。

▶コンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗によって、ローマ帝国は、AD313にミラノ勅令を公布(宗教の自由を許容したが、即後、キリスト教以外は不許可とした)。
→国家とキリスト教が結託し、他宗教を迫害

▶コンスタンティヌス1世は、ローマ教皇=ローマ宗教の大祭司(ポンティフェクス・マクシムス、教会の頭として君臨)となることで、教会は国家に縛られて一つになり、皇帝は教会の大小のすべてに直接、介入することで、政教合同の位置に立つようになる。

▶コンスタンティヌス1世は、キリスト教を国教にして、教会と教会指導者、信徒に多大な特典を与え、人々から歓迎される宗教とした。
→ばらまき政策の実施→教会の堕落、世俗化、聖職売買
→①ギリシア(ローマ)神殿化
→②太陽神ミトラス教の豪華絢爛な儀式と制度を祭司服に取り入れた
→①②は、ローマ教皇庁の司祭たちの華美な服装等へとつながる

▶AD321年3月7日、日曜日遵守法令発布(太陽礼拝、公休日)Constantine’s Sunday Low
→ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は日曜日を尊ぶべき日 (Venerabili die Solis / Venerable Day of the Sun) として、休業日(仕事を休む日)にする勅令(日曜休業令)を発布した。
→土曜日の安息日を取り消し、日曜日を礼拝日と決定

▶AD325年、ニカイア公会議 日曜日を復活祭として遵守することを決議。
→復活祭(イースター)の決定法の確立

▶AD330年、コンスタンティヌス1世、首都をローマから東のコンスタンティノープル(現、イスタンブール)に移す(結果として、ローマには皇帝がいなくなる)。
→皇帝の干渉、支配から外れ、独自の教会の権力を持つようになる

▶AD364年、ラオディキア会議で、日曜日を礼拝日(主日)として承認。
→日曜日を主の日 (Dies Dominicus / Lord’s Day) として休むことを決定、日曜日が安息日に確定した。
→土曜日の安息日を守るなら、イエス・キリストから呪いを受けるという宗教法の宣言

▶AD375年、グラティアヌス皇帝(在位:AD367~383年)が異教大祭司の名称である「ポンティフェクス・マクシムス」を放棄。→ローマ教会の監督は、この称号を自分の称号に適用させた(従って、今日も教皇の称号は「ポンティフェクス・マクシムス」である)。

▶AD392年、テオドシウス1世(在位:379~395年)、キリスト教を東ローマ帝国の国教とした。
→AD392年、キリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、後に西ローマ帝国においても同じくした。

▶AD451年、カルケドン宗教会議で、ローマ監督とその後継者に「父(Papa)」という意味の「教皇(Pope)」を使用することを決定。

▶AD476年、西ローマ滅亡後、ローマ教皇が西ローマ皇帝の位置に座る。

フランク王国の国王クローヴィス1世が、トルビアックの戦い(AD 496~497年)で強敵アラマンニ人に勝利したのを機に、改宗(→クロヴィスは一夫多妻制の生活を送っていたが、妻の1人であった王妃クロティルドの影響で、キリスト教アタナシウス派-カトリック教会に改宗した。クローヴィスの改宗は、コンスタンチヌス時代のように、教会が異教のあらゆる慣習に侵略される要因となった)。
→ローマ教皇、政治的権力の基礎を固めに成功。

▶AD533年、ローマ教皇(監督)はユスティニアヌス1世(東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝、在位:AD527~ 565年)によって「すべての教会の顔」として認められ、AD534年の「ユスティニアヌス法典」に、その事実が記録された。

AD538年、ユスティニアヌス皇帝の軍事的な協力によって、ローマとイタリアを掌握し、アリウス主義(アリウス派:キリストの神性を父なる神よりも下位に置くキリスト従属説)の東ゴート(東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ皇帝の廃止後、イタリアのほぼ全域を支配下においた)を撃退し、教皇はついに実質的に全世界を治める権力の座に上り詰めた(法王至上主義の始まり)
→「竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。」(黙示録13:2b)
→なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。(テサロニケの信徒への手紙二2:3b)
→このように異教とキリスト教の妥協は、神様と闘って神様よりも自分を高めると預言された「不法の人」の進出をもたらす結果となった。

※AD1798年、ナポレオンの将軍ベルティエがローマに入り、ローマ法王ピウス6世を逮捕(AD538年から始まった法王至上主義の終焉)

▶AD800年、クリスマスの夜、ローマ教皇レオ3世(在位:AD795年12月26日~816年6月12日)がひざまずいて待っているフランクのシャルルマーニュ(カール大帝、在位:AD768~814年、西ローマ皇帝:AD800~814年)に王冠をかぶせて、帝国の皇帝と宣言し、皇帝に代表される国家と教皇に代表される教会が完全に連合して、神が治める神聖ローマ帝国(the Holy Roman Empire)が誕生した。
教皇グレゴリウス7世は、「ローマ教会はただ神によって設立された。ローマ教皇の足だけが君主たちの口づけを受けることができる。」(ローマ教会は無謬(むびゅう)-理論などに誤りがない-であり、永遠に過(あやま)つことはない)と宣言した。このような背景を持つ、神聖ローマ帝国は、教皇の保護者になって十字軍を起こしたり、カタリ派(南フランスの都市アルビに由来するキリスト教色を帯びた民衆運動、アルビ派とも呼ばれる)とワルデンセス(the Waldenses)を迫害した。

ワルデンセス、ジョン・ウィクリフ、ヤン・フス******************
▶ワルデンセス(the Waldenses)
→❶ローマ教会の伝統を否定して、❷教会は聖書の純粋な教えに戻ること、❸ローマ教会が教える煉獄の教理を否定して、❹教会は絶対間違いがない、という主張を拒絶した。
→❶平信徒にも福音を説教する権利があると主張し、❷財産を売り、貧しい人たちに分けることは献身するクリスチャンの正しい行動だと教えた。
→❶死んだ者のための祈りに反対し、❷聖餐式(聖晩餐)のパンと葡萄汁が実際にイエス・キリストの体と血になるとする化体説(かたいせつ)を否定した。
→そして、イエス・キリストと使徒たちのように聖書上の第七日を安息日として守った。
→しかし、ローマ教会から激しい迫害を受けて、1545年、南フランスの南東部のプロバンスでは22の村が燃やされ、虐殺された人々は4000人にも上った。1685年にはイタリアのピエモンテでも迫害が起き、140000人余りが捕虜になった。

▶ジョン・ウィクリフ
ジョン・ウィクリフ(1320年~1384年)は、宗教改革の新星、宗教改革の先駆者とされる。彼は14世紀、欧州の最高峰オックスフォード大学の最も有能な学者として、ワルデンセスの精神を受け継いで改革を繰り返し、導いた人物である。彼は、当時のイギリス国王エドワード3世の宮中司祭になって政治的な影響力もあった。❶教会の唯一の頭はイエス・キリストであり、教皇は反キリストの代理者だと大胆に宣言し、❷カトリック教会の中心的な祭礼であるミサにおいて、パンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという化体説(かたいせつ)を否定、❸そして、教皇無謬説告解制度に反対し、❹煉獄を否定し、❺聖者礼拝、❻聖遺物崇拝は聖書的ではないと反対した。

このように徹底的に改革を叫びながら教皇庁に真っ向から挑戦したウィクリフは何度も異端だと定められ処断が要求された。しかし、神の摂理でイギリス王家に保護され、無事だった。彼の最も大きな業績はオックスフォードの学者たちを集めて、1382年、初めてラテン語聖書(the Vulgate)を英訳して民の目と耳を開き、宗教改革の扉を叩いたことである。また、ワルデンセスと同様に、信心深く献身的な平信徒を教えて福音を説教した。ウィクリフに従う群れを「ロラード派」と呼んだが、その中には貴族たちも多数いた強力な勢力だった。このウィクリフの感化がルターの宗教改革を引き起こしていくことになる。

ヤン・フス(ヨハン・フス、1369年頃~1415年)
ウィクリフの哲学的現実主義に強く魅了され、その神学理論を知ったことにより、教会改革に向かうフスの性向が覚醒した。このため、フスは聖職者を批判することが増え、大司教は彼に与えた職を解任した。
→真理の7命題(火刑瞬間の叫び)
「心理だけを探せ、真理だけを聞け、真理だけを学べ、真理だけを愛せ、真理だけを語れ、真理だけを守れ、死を恐れず、真理を死守せよ。」

<備考>
※ウィクリフは火種を作り、フスはその火種で火をつけ、ルターはその火で松明を燃やした。
※安息日:創世記2:2~3、出エジプト記20:11にもとづき、土曜日 (金曜日の日没から土曜日の日没まで) を安息日としている。

★PDF:コンスタンティヌス1世の策略とローマ教皇の地位