寛恕

(かんじょ) おおらかにゆるす

「人をゆるす」には「許す・赦す・恕す」の3つがある

「人をゆるす」とうい文章のときに、漢字を使うならば、「許す」「赦す」「恕(ゆる)す」と書きます。

「かんじょ」とは、度量広く思いやりの深いこと、そしてまた、おおらかな(寛大な)心を持って人をゆるすことです。

「恕」は、如し、という言葉の下に「心」をあてがってできた漢字ですが、自分のことのように他者のことを考え、自分をゆるすように、相手をゆるすという意味がこの文字の中に含まれています。(略)

人はだれでも、善と悪の心を持っています。悪が勝てば、いじめたり、害を加えたりします。旧約聖書の創世記の3章「蛇の誘惑」で、知恵の実を食べ、エデンの園を追放されたアダムとイブのことを思い出してください。

だれでも表に出る性格の裏側に悪を持ち、それをなんとかして抑えようとしても、抑えきれずに隠し事をしたり、気に食わない相手の言動をののしったり、攻撃したりしています。

そのような悪の面を持つ自分を懺悔(ざんげ)し、「神様、どうか赦してください。私は人に迷惑をかけ、経済的にも人に借りを作ることがあります。
私が人に迷惑をかけたり、人に借りを作ったことを赦されたように、自分も人を赦すことができるように見守りください」ということを、「主の祈り」は言っています。

そして、この「主の祈り」の聖句に続いて聖書にはこう書かれています。

「もし人の過ちを赦すなら、あなたの天もあなたの過ちをお赦しになる」。

人を恕す前にまず、自分に恕しを請う罪や借り(負い目)があることをしっかりと意識して、自分の恕しを願うことが、主の祈りの中で重要な部分なのです。

この「恕し」は、人間が社会生活をする上で一番大切なものだと、私は思います。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆(日野原重明著「今伝えたい大切なこと」(NHK出版)から)