親鸞とルター

親鸞とルター
親鸞の「如来よりたまはりたる信心」、ルターの「信仰とは神の働きである」。

巡察宣教師ヴァリニャーノが「日本巡察記」に書いたように、二人は信仰について同じことを語っています。

親鸞の言う「他力」、そしてルターの言う「恵み」を受け取ること、それが「信仰」です。
親鸞とルターにとって、信仰こそが人生の全てでした。

左図:ウィキペディア「親鸞(安城御影)」より

親鸞は、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(親鸞上人の教えを説いた「歎異抄」に出てくる有名な言葉)と説きました。「悪人正説」(あくにんしょうきせつ)といわれています。
」とは、”対象”をいいます。
親鸞の唱える、他力の仏道では、悪人こそが正機で、これに対し、善人は傍機といいます。

「善人」=自力で修めた善によって悟る事や往生出来る、つまり、阿弥陀の救いが少なくても極楽へいける人。

悪人」=どんなに修行しても迷いの世界から離れられない、煩悩具足の凡夫(私たち)。

「往生」とは、本当の幸せになることをいいます。
「善人」でさえ幸せになれるのだから、「悪人」はなおさら幸せになれる。

つまり、「悪人正機説」は、阿弥陀仏の本願は悪人を救うためのものであり、悪人こそが、救済の対象だという考え方です。

悪人こそ救われるという、この驚くべき逆説も、仏の絶対他力ゆえに納得できるものがあります。

罪人である人間が神の恵みのゆえに義とされるのです。

これは、イエス・キリストの教えそのものです。

「たとえ明日、世界が滅びようとも、リンゴの木を植えよう。」(マルティン・ルター)

「たとえ世界の終末が明日であろうとも、私は、今日リンゴの木を植える。(コンスタンス・ゲオルギュ)

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音書2:17)