いただいた内容をそのまま記載しています(一部、追記)。
多くの宗教教師たちは、キリストはご自分の死によって律法を廃された、それゆえに人はその要求から解放されている、と主張する。中には、律法を重苦しいくびきであると言い、律法の束縛とは対照的に、福音の下において自由が享受できると主張する人々もいる。しかし、預言者や使徒たちは、神の聖なる律法をそのようにはみなさなかった。「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」(詩篇119篇45節)。キリストの死後に書いた使徒ヤコブは、十戒を「尊い律法」「完全な自由の律法」と言っている(ヤコブ2章8節、1章25節)。そして、十字架から半世紀の後に、ヨハネは、「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、神の律法を行う者」はさいわいであると言明している(黙示録22章14節・英語訳)。(各時代の大争闘27章・誤った律法観)
明け方3時半の国道。だーれもいない町外れの交差点の赤信号で停車している私は、不自由なのか、それとも自由なのか。赤信号を含む交通法規など昔からある古い決まりだ、そんなものはフリーで賢い自分や現代社会にそぐわないから、私は従わない!と、そう思った私は信号を無視して「私の自由だ!」と発進した瞬間に、同じような輩(やから・悪事を働く者)が時速120キロで一般道を走り激突して来て、車は大破し、互いに大怪我を負い集中治療室に救急車で運ばれ、色んなチューブに繋がれて生きるか死ぬかの、究極的に不自由な状態になった。それでも私は交通法規などには縛られない、私は自由なのだ!と言うだろうか。もしそうなら脳ミソがお花畑の愚か者だ。他者の安全と自由を脅かす社会悪だなのだから、法によってしっかりと裁かれて当たり前で、誰もそれに異論をとなえることは無いどころか、もっと厳しくしろと言うかもしれない。天地創造の神様が炎の筆で石に刻んだ十戒が古いとか、十字架で廃されたとか、4条の第7日安息日はもう現代に適応しない、などという主張は、上の例より更に愚かしい。イエス様からの真理の自由を、罪の不自由で塗りつぶすサタンの作戦だ。第7日安息日を迎える良き備えを(H.T2024/11/29 (金) 8:05)。
サタンは、聖書が人々に、彼の欺瞞を見分け、彼の力に対抗できるようにさせることをよく知っていた。世の救い主でさえ、み言葉によって、彼の攻撃を退けられた。キリストは攻撃されるたびに、永遠の真理の盾を用いて、「……と書いてある」と言われた。サタンのあらゆる誘惑に対し、キリストはみ言葉の知恵と力をもって対抗された。サタンが人々の上に権力をふるい、横領者的な法王権を打ち立てるには、彼らを聖書について無知にしておかねばならなかった。聖書は神を高め、有限な人間の真の立場を明らかにする。それゆえに、その聖なる真理を隠し、抑圧しなければならない。ローマ教会はこの論法をとった。数百年にわたって、聖書の配布が禁止された。人々は聖書を読むことも、それを家に持つことも禁じられた。そして節操のない司祭たちや司教たちが、自分たちの主張を支 持するためにその教えを解釈した。こうして法王は、地上における神の代表者、教会と国家に対する権威を与えられた者として、広く認められるようになった。(各時代の大争闘3章・非聖書的な法王至上権説)
闇夜の森の小道を、明り無しで歩こうとしたとがあるなら分かるだろう。そこは漆黒ですぐに方向感覚がなくなり迷ってしまう。しかし足元を照らす光があれば、それを頼りに道から外れることなく進むことができる。聖書の光りなしで、この罪の世界を迷うことなく歩み行くのは不可能だ。法王教は1260年間もの間民衆が聖書に触れることを禁じた。まさにこの暗黒時代において、人々はローマ法王教の、何の聖書的な意味もない儀式や奇跡に縛られた。手にロザリオを着け、呪文を口に胸で十字を切り、死者(マリアやその他の聖人)の偶像を拝まされ、涙を流すマリア像に手を合わせ、穢れた司祭に犯した罪を告白懺悔し、罪の赦しのために難行苦行を行い、お金を払い免罪符を買わされた。その教えに反する者達を異端だと迫害し拷問し火炙りにし、この教会の社会教義(カテキズム)を聖書の上に置き、石に刻まれた聖書の十戒をいじり、第7日(➡土曜日)安息日を第一日(➡日曜日)に勝手に変更し、これらに従わなければ地獄に落ち永遠の炎で焼き続けられると人々を脅した。信じることにより与えられる救い、イエス様の犠牲の血による罪の贖い、などはどこにも見られないこの巨大組織は、「キリスト教」では無い。キリスト教のように見える、死者・偶像・サタン崇拝オカルト教会だ。その悪魔的で穢れた教えに、聖書の教えのみを高く掲げ、断固としてプロテスト(抵抗)するのがプロテスタントだ。そのプロテストの火ぶたを切ったルターがこの教会の扉に抗議文を打ち付けたのが、10月31日だ。ハピーハロウィーン(穢れた死者の祭りがハピーなわけないが)とか言っておバカな仮装をして浮かれている場合では無い。サタンはこの決定的に大切で重大な意味のある宗教改革の開始日を、どうでもいいハロウィンで塗り潰そうとしている。しかし私達は何があっても聖書中心主義だ。なので当然第7日安息日も聖別し覚えるのだ。良き安息日を(H.T2024/11/02 (土) 7:22)。
ダビデを堕落させたのは、自己過信と自己高揚の精神であった。甘言、陰険な権力の誘惑、ぜいたくなどが、彼に影響を与えずにはおかなかった。周りの国々との交際もまた悪影響を及ぼした。東方の諸王の間の習慣に従って、国民の間では許されない犯罪が王には許された。王には、国民と同様の自制をする義務がなかったのである。こうしたことは、すべて、罪が、はなはだしく憎むべきものであることを、ダビデに感じさせなくしたのである。そして、彼は心を低くして主の力にたよる代わりに、自分自身の知恵と力にたよりはじめた。サタンは、唯一の力の源である神から魂を引き離すとすぐに、人間の肉の心の汚れた欲望を起こさせようとする。敵の働きは、急激ではない。それは、最初は、突然でも驚くほどのものでもない。それは、原則の城塞をひそかにくつがえすことである。それは、初め、神に対する忠誠と、全く神に信頼することを怠るとか、世の風俗や習慣に従おうとする気持ちなどの、一見小さいことから始まる。(ダビデの罪と回心)
もし誰から意見をもらわなくても自分で何かを決められる立場にいるなら、ダビデと同じ誘惑がある。一国の王でなくても、人は少しでも自分が何かを判断できるポジションに立つと、神様に一つ一つの選びをどのようにすべきかと問う、そのアドバイスを求める熱心な祈りをしなくなる。神様の方法ではなく、自分の方法で、自分の欲を満足させる計画を推し進めるのなら特に注意だ。ゴリアテに立ち向かった少年ダビデは何の地位も力もなかったが、全てを神様に委ね、あり得ないと思われる勝利を得た。全ての地位と力を得たダビデ王は、全てを神様に委ねて問うことを忘れてしまい、大きくつまずいてしまった。このパターンは私達にもお馴染みのことだと言えないだろうか。どのような時でも謙虚に、いちいち神様に最善の方法を祈り求めつつ、イエス様ならどうするだろうと考えつつ、生きたい(H.T2024/10/17 (木) 12:34)。
あなたは、この日、自分の目で、主があなたをきょう、ほら穴の中でわたしの手に渡されたのをごらんになりました。人々はわたしにあなたを殺すことを勧めたのですが、わたしは殺しませんでした。、、サウルは、ダビデの言葉を聞いて非常に恥じ入り、 その真実なことを認めないわけにいかなかった。彼は、自分がつけねらっていた者の手中に完全に陥っていたことを認めて、深く心を動かされた。、、ダビデは、サウルのこれまでのことを知っていたので、王の確証の言葉を信頼することはできなかった。また彼の悔い改めも長く続くとは思わなかった。こうして、サウルは家に帰り、ダビデは山の要害に残っていた。サタンの力に服した人々が、神のしもべたちに対していだく敵意が、時には、和解と好意の感情に変わることがある。しかし、この変化は長続きしないのが常である。、、彼らが再び悪魔のささやきに耳を傾けると、以前の疑惑と敵意が再び頭をもたげ、悔い改めて、一時捨てていた同じ活動を再開する。、、サタンはこうした行動後の彼らを以前よりも大いなる力で活用することができる。(人類のあけぼの65章・ダビデの寛容)
人の心の移ろいは全くあてにならないものだ。昨日はすごく前向きハイテンションで気分も上々だったのに、ちょとしたことをきっかけにこの世の終わりかと思うくらいに落ち込む。同じように、ダビデの寛容に深く恥入り反省したサウルの心も、あっという間に嫉妬心と憎しみが再燃し、それは以前より強いものとなった。一度気持ちがその方向に進み始めると、自分でそれが間違っていると分かっても引っ込みがつかなくなることがある。そして自分を正当化する理論武装を重ねに重ねて、誰の意見も聞く耳も持てなくなる。気分がよくても悪くても、物事が上手く行っても行かなくても、絶えず神様の示す方法を知ることを願い求め、それが何であるかを確認したら躊躇わず実行する姿勢が必要だと思う。自分の行動を神様ぬきで、自分の感情に任せると良いことはない。マイナスの感情は自己中心(罪)の結晶なのだから(H.T2024/10/08 (火) 12:22)。
「ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした」(同18:5)。ダビデは慎重で忠実であった。そして、神の祝福が彼と共にあることが明らかであった。サウルは時おり、自分がイスラエルを統治するには不適任であることを自覚し、主の教えを受けた者が彼と共にいたならば、王国はもっと安定するだろうと考えた。サウルは、また、ダビデと関係を保つことによって、自分の身を守ろうと望んだ。ダビデは主に恵まれ守られていたから、彼を戦いに連れて出れば、彼がいることによってサウルは保護されることであろうと思われた。、、しかし、ダビデに対するサウルの友情は、長く続かなかった。サウルとダビデが、ペリシテ人との戦いから帰ってきた時に、「女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた」(同18:6)。女たちの群れが、「サウルは1000を撃ち殺し」と歌うと、別の群れがその歌に答えて、「ダビデは万を撃ち殺した」と歌った(同18:7)。王の心に嫉妬の鬼が入った。、、サウルの性格の一大欠陥は、賞賛を愛する心であった。この特質が、彼の行動と思想を支配していた。何事においても、賞賛と自己賞揚を欲する気持ちがあらわれていた。彼の善悪の標準は、人々の賞賛という低い標準であった。まず第一に神を喜ばせようとせず、人間を喜ばせるために生活する人は安全ではない。(人類のあけぼの64章・サウル、ダビデを追う)
サウルのようにいい大人が、人の賞賛や承認、「いいね👍」ばかりを気にしているのは痛すぎるしみっともない。ダビデのように神様を褒め称え、神様の目に自分がどのように映るかを意識することが何よりも大切だ。ダビデは神様のためならとても大胆だったが、自分のことに関しては「慎重で忠実」だった。サウルは逆だ。彼は人が自分をどのように評価するかばかりを気にして、神様のことは二の次だった。自分より人気の出てきたダビデを嫉み、そのことで気分がころころと変わる情緒不安定な国王などは、どう考えてもややこしくて面倒な奴だ。そしてこの精神は世界一面倒で性格のこじれ曲がったサタンのものと同じだ。嫉妬心は人の心に大きく黒い負のエネルギーを蓄積して、それは陰口や復習や嫌がらせなどに繋がる。今、間も無く再臨を迎えるこの時に、私達はそんなことをしている暇はない。自分を誇るのではなく、イエス様を誇りたい。良き、イエス様の第7日安息日を(H.T2024/10/05 (土) 6:14)。
ダビデが、羊群を連れて放浪した寂しい山や険しい谷間には、野獣が横行していた。ヨルダンの茂みからライオンが出てきたり、山のほら穴から腹をへらして獰猛(どうもう)になった熊が出てきて、羊群を攻撃することもよくあった。ダビデがそのころの習慣に従って持っていた武器は、石投げと羊飼いの杖だけであった。しかし、彼は、早くから委ねられたものを保護する能力と勇気を持っていたことを示した。後に彼は、こうした出来事について言った。「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました」(サムエル記上17:34、35)。ダビデは、こうした経験にあってその心がためされ、勇気と堅忍不抜の精神と信仰とが強められていった。(人類のあけぼの63章・ダビデとゴリアテ)
最近は熊の出没ニュースがよく話題になり、そのような地域の親は子供を車で学校に送迎するような時代になった。少年ダビデの頃は羊飼いが熊やライオンと投石器のみで対峙することは当たり前のことのようで、もちろん神様のお守りもあったろうが、彼らは大人抜きで勇気を持って野獣問題を解決していた。何と自立して勇敢で雄々しいことだろう。精神的にも肉体的にも虚弱になり、虫さえ触れないような現代人の感覚では理解できない。ワイルドだが、しかし琴を奏でたり詩を歌ったりする芸術的な感性も兼ね備え、その一見アンビバレント(→一つの物事に対し、全く相反する感情、態度、考え)な意外性が神様に用いられる全人的な品性の基でもあり、魅力でもあったのだろう。モーセも、ダビデも、イエス様も、ペテロも、パウロもみな肉体労働者で、自然のエレメント(→要素、成分)を日々感じながら生活していた。そもそも神であられるイエス様はこの地上では、王子でも、CEOでも、行政者でも、教授でもなく、荒くれ男たちに囲まれたただの大工だった。神様に用いられた彼らの共通項は、今の私たちにとっても意味深いと思う。強く、雄々しく、優しくありたい(H.T2024/10/01 (火) 12:29)。
サウル王は、自分が神に拒否されたことを認めた。そして、預言者が彼に対して言った非難の言葉の力強さを感じた時に、彼は、激しい反逆と絶望感に満たされた。、、彼は、自分の罪の憎むべき性質を明らかに悟らなかった。そして、自分の生活の改革に努力しようとはせずに、イスラエルの王座から彼を追い、継承権を彼の子孫から奪ったことを、彼は神の不法行為であると考えて憂いに沈んだ。彼は、自分の家にもたらされる破滅のことばかり考えていた。、、彼の高慢な心は絶望的になり、今にも理性を失いそうになった。王の家来たちは、美しい楽の音によって王の心の悩みを和らげようとして、巧みに音楽を奏する者を捜し出すように勧告した。ダビデは琴をひくことが巧みであったので、神の摂理によって王の前に召し出された。天の霊感による彼の気高い旋律は、期待したとおりの効果があった。、、ダビデは、、必要なときには、いつでも王の前に召し出されて、悪霊が王を去るまで彼の悩む心をなだめるのであった。サウルは、ダビデと彼の音楽を楽しんでいるけれども、若い羊飼いは王宮から自分の牧場のある野や山へ帰って、ほっとしたうれしさを味わうのであった。(人類のあけぼの63章・ダビデとゴリアテ)
サウルは今で言う精神疾患に苦しめられた。苦しめられたというより、悔い改めずに自分のことの心配ばかりして、しかも神様を責める気持ちまで持ってしまったので、サタンが自分のレプリカのような彼の心を支配しやすくなったと理解する方が正しいだろう。心の憂いは自己中心な人間の患いやすい、罪の病だ。このような精神的な問題が、この世界と私達の心を舞台とした、イエス様とサタンの間の大争闘と無関係に起こるわけが無い。また精神疾患は遺伝なので仕方ないという考えもだいたい間違っていて、その影響は統計的に見ても数パーセント以下なのだ。全てが人の選びにかかっている。神様を信じているふりをしながらも、何かの罪を諦められず、悔い改めきれていないと、いつまでも心が病む。しまいには病むのが当たり前になり、それを言い訳にやるべきことから逃げたりもする。接する人にしてみればただの面倒な奴だ。さすがのダビデもこの情緒不安定(メンヘラ王)サウルに癒し音楽を奏でた後、自分の住む大自然に帰ると安心したようだ。その気持ちわかるような気がする。人を1番疲れさせるのは人だ。そして人を1番癒すのもイエス様の愛を実践し祈りつつ接してくれる人、そして大自然だ。聖書の言葉と大自然に触れて、絶えず感謝して神様を褒め称え、賛美する心を持つ者の心は健康だ。自分よりも神様を優先すると、サタンは心から閉め出される。ずっと去っていただこう(H.T2024/09/30 (月) 6:05)。
1人で羊を飼っていたダビデは、預言者がベツレヘムに来て彼を呼んでいるという、使いの者の不意の招きに驚いた。彼は、イスラエルの預言者であり士師であるサムエルが、なぜ自分に会いたいのだろうかと、驚いてたずねた。しかし、彼は、すぐに招きに応じた。「彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった」。サムエルは、このりっぱで男らしい謙遜な羊飼いの少年を満足げに見ていた。すると、主は預言者に、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」と言われた(同16:12)。ダビデは、羊飼いの日常の仕事をしながら、勇敢さと忠実さを実証した。そこで、神は、彼を神の民の指導者に選ばれたのである。、、ダビデには大きな栄誉が与えられたが、高慢にならなかった。彼は、高い地位に就くことになったが、静かに自分の職業を続け、主が、ご自身の時と方法によって主の計画を進められるのを待って満足していた。羊飼いの少年は、油を注がれる前と同じ謙遜な気持ちで、山にもどって、以前と同様に羊の群れをやさしく見守り保護した。、、彼は、神を見ることはできなかった。しかし、神が造られたものは神に対する賛美にあふれていた。太陽の光は、森や山、野や小川を照らし、あらゆるよい贈り物、あらゆる完全な賜物の与え主である光の父を心に思わせた。日ごとに創造主の品性と威光の啓示に接した若い詩人の心は、賛美と歓喜に満たされた。(人類のあけぼの62章・ダビデ油を注がれる)
自然を愛でる心を持った謙遜で男らしい少年、これらの要素を兼ね備えたダビデが神様の選ばれた将来の指導者・預言者だった。人の魅力は何か、男らしさとは何か(今の時代男らしさとか、女らしさとか言うと差別者あつかいされるけど関係無い)という問いに対するアンサーだ。そもそも彼は荒々しい自然の中で働く肉体労働者であって、宮廷や地位のある家庭で柔らかい綺麗な衣をまといちやほやされたソフティーではなかった。自然(アウトドア活動)は私たちに謙虚さと優しさを教えてくれる。インドア(ネットワールド)は私たちを調子に乗らせる、とまで言ったら言い過ぎだろうか。でも一理あるような気がする。サウルとダビデの決定的な違いはここらへんだったのかもしれない。油注がれたダビデはその指名(使命)にびびる事もなく、自意識過剰になることもなく、普通に羊飼いの仕事に戻り、慌てずに神様の時を待った。この姿勢を見倣いたい。彼の祈りと賛美に溢れた野外生活は、神様が私たちに求める、現代人の忘れかけている、あるべき理想の姿なのかもしれない。イエス様が迎えに来られる再臨の時には、多くの救われるべき者達は山に逃れ、少年ダビデのような荒くれの生活をしていると、預言(予測)されている。今からでもその練習をするのは悪くないと思う。部屋の中にいてバーチャルな画面ばかり眺めていないで、神様の創造の御業を愛でるために外に出るのはいかがだろう(H.T2024/09/29 (日) 6:50)。
サウルは、王位に召されたとき、自分自身の力量について謙遜な考えを持ち、教えを受ける気持ちが十分にあった。彼は、知識も経験も乏しく、品性の重大な欠陥を持っていた。しかし、主は聖霊を指導者また援助者として彼に与え、イスラエルの支配者として必要な特質を伸ばすことができる地位に彼をおかれた。もしも、彼が謙遜で、常に神の知恵を仰ぎ求めていたならば、その高い地位における任務を果たして成功を収め、栄誉にあずかることができたことであろう。神の恵みの力によってすべてのよい特質は強められ、悪い傾向は、その力を失っていくのであった。こうしたことは、主に献身するすべての者のために、主がしようとしておられることである。謙遜で教えを受ける精神を持っているために、神の働きの中の種々の地位に召される人々が多くある。神は、み摂理のうちに、彼らを、神について学ぶことができるところにおかれる。神は、品性の欠点を彼らに示される。そして、神は、助けを求めるすべての人々に、彼らの誤りに打ち勝つ力をお与えになる。(人類のあけぼの61章・サウル退けられる)
「謙遜で教えを受ける精神」、は今もあるだろうか?最初の頃はあったのに、それなりの経験を積み、気づかないうちに傲慢になり調子に乗ってはいないだろうか。最初のころのサウルも、自信も経験も無く、神様の指示に素直に従っていた。なので祝福されたのだが、彼はすぐにそのことは忘れて調子に乗り、それがあたかも自分の手柄であるかのような態度をとった。そうなると謙遜に教えをいただくという、品性の宝のような精神は、風船の空気が抜けるように萎んでしまう。成功し続ける者はいつも謙虚に学ぶ気持ちがあり、その思いが途切れることがないのだと思う。何よりも私達は、神様に対してこの姿勢を持ち続けなければならない。神様に示されたアドバイスには、だって、でも、だけど、などと言わないで、「はいわかりました、そのようにさせていただきます」と言い、それをためらわず実践してみることだ。これは自分の考えで自分のために生きるのか、イエス様のために生きるのかの、人生の目的が何なのかを分ける、大きな精神的分岐点なのではないかと思う。それぞれの選びだ(H.T2024/09/26 (木) 12:25)。
すぐに自分の罪の言い訳をしたり、弁解をしたりする人は、他人をきびしくさばき非難する人でもある。多くの者は、サウルのように、神の不興を招くのであるが、勧告を拒み、譴責を軽蔑する。主が彼らと共におられないことが明らかになっても、悩みの原因が、自分たち自身にあったことを認めようとしない。彼らは、高慢で自負心をいだいている。その反面、彼らは、彼らよりも善良な他の人々を残酷にさばき、きびしく譴責する。こうして、自分たちを裁判官の座にすわらせる人々は、次のキリストの言葉をよく考えるがよい。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」(マタイ7:2)。自己を高めようとする者は、その本性を暴露する立場に置かれることがよくある。サウルの場合もその通りであった。人々は、王が、正義、憐れみ、愛よりも、王の栄誉と権威を重んじたことを、彼自身の行動によってはっきりと知ることができた。こうして、人々は、神がお与えになった統治を拒否したことが誤りであったことを悟らされた。彼らは、彼らのために祝福を祈り求めた敬神深い預言者の代わりに、盲目的熱心さをもって祈り、彼らにのろいを下す王を選んだのであった。(人類のあけぼの60章・サウルの不遜な態度)
「頭下げ、下がる名誉無し」という誰かの名言があるが、本当にそうだと痛感する。昨今のニュースを賑わす色々な不祥事事件などを見ていると、綺麗に謝罪するのと、保身の言い訳をしつつ歯切れの悪い謝罪をするのとでは、その後の受け入れられ方に雲泥の差があるのがわかる。時には謝罪が潔く、以前よりも評価が上がる場合さえある。自分に優しく人に厳しい者は、自分の非を認める前に(認めもしないが)、言い訳ばかりを言う。サウルのように自己顕示欲の強い、いい大人は、ただひたすら面倒な存在だったと思う。自分もそうなっていないか注意しなければいけない。また自分ができてもできなくても、人を非難するのはイエス様の方法ではない。非難するくらいなら、わかりやすく教えてあげる方がよほど気が利いている。もし自分が人の上に立つような立場なら、気分の浮き沈み(情緒不安)と批判的な態度は、1ミリも表してはいけない。そのような態度は接する人を精神的に病ませるだけで何の証にもならない。謙遜さ、それはどの時代にも共通する輝く品性の要素だ。私のネガティブな気分は神様にお任せし、自己アピールてはなく、イエスアピールにこだわりたい(H.T2024/09/24 12:29)。
われわれは、神の試練を受ける時に、それがどのような重大事にかかわりがあるかを知らない。神のみ言葉に、全的に服従する以外に安全はない。神の約束は、すべて、信仰と服従を条件にして与えられたもので、神の命令に応じなければ、聖書にしるされている豊かな恵みにあずかることができない。われわれは衝動にかられたり、人間の判断に頼ったりしてはならない。われわれはどんな環境にあっても、神の啓示されたみこころを仰ぎ、神の明らかな戒めに従って歩かなければならない。結果は、神が責任を負って下さる。われわれは、試練の時に、神のみことばに忠実に従い、どんな困難な事態においても、神に信頼され、神のみ名に栄光を帰し、神の民の祝福となることができることを、人々と天使の前で実証することができるのである。、、イスラエルの最初の王の生涯は、幼少のころの悪習慣の力がどんなに強いかを示す悲しい実例である。サウルは、若いころ神を愛しおそれなかった。そして、幼い時に服従を教えられなかった性急な情神が、常に神に反抗した。(人類のあけぼの60章・サウルの不遜な態度)
神様に信頼し自分の全てをお委ねすれば、全知全能の神様が全ての責任をとって下さる。これ以上に心強い約束はないと思う。これには、愛の神様の法則である十戒に忠実であるという条件が伴う。自分の気分や衝動、人の意見やアドバイスを1番にすると、サウルのように不遜で痛く残念過ぎる結果になる。人は自分の好きな意見を集めたがるし、自分と親しい者はこちら聞きたいことだけを言う傾向にあるので要注意だ。何事もまずは神様の1番良しとする方法を求めずして、その他の方法を上にしてはいけない。自分のやりたいことを、何に縛られることもなく自由にすればいい、そのような考え方が現代人の主流になってしまっているが、これは罪が深まった最も危険な状態だ。サタンはそのような人間の勝手わがままな状態を散々煽(あお)ってこの終末世界をカオスにしながら、あたかもそれに対する解決策のように間違った宗教(日曜日遵守、死者崇拝、偶像礼拝)を押しつけて来る。何をするにも自分の気分中心だと、このorder out of chaos (混乱からの間違った秩序)作戦に呆気なくやられてしまう。今日も全てを神様にお委ねしつつ過ごしたい(H.T2024/09/23 07:50)。
イスラエルの王朝政治は預言されていたとは言え、彼らの王を選択する権は、神ご自身が保留しておられた。ヘブル人は、神の権威を尊重して、正の選定を全く神にゆだねていた。ベニヤミンのキシのむすこサウルが選ばれることになった。将来の王の人間的特質は、王を求めた人々の誇りを満足させるものでなければならなかった。「イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はな」かった(サムエル記上9:2)。背が高く、りっぱで気高い威厳を備えた壮年期の彼は、生まれながらの指導者のように思われた。サウルは、これらの外面的魅力はあったが、真の知恵を構成するのに必要な気高い特質に欠けていた。彼は、青年時代に、その性急な激情を支配することを学ばなかった。彼は、神の恵みの改変の力を感じたことがなかった。 (人類のあけぼの59章・イスラエルの最初の王サウル)
神様の道徳的基準が軽視され、品性の美しさが何であるかの定義がぼやけ、人の外見を重んじる社会では、いわゆるルッキズム(外見重視主義)がまかり通る。ルックスの良い者の主張は正しいと認められやすく、ルックスの劣った者の主張には価値がなくクズあつかいされるという、とても幼稚で乱暴な発想だ。このことを心理学ではハイロー(後光)効果とも言う。全く同じ能力の2人がいたとしても、ルックスの良い方の能力が高いと見られ、能力があったとしてもルックスが悪いとそれが認められないという、罪の人間のとても浅はかな傾向だ。サウルは背が高くイケメンで、それらしい風格も備わっていたが、彼は若い頃から感情の起伏が激しく、それを克己(自分をコントロールする)精神で治める能力が不十分だった。感情が不安定な者は人間関係が難しく、また人に信頼されにくく、そのような者が親だったり、職場の上司だったり、仲間の中にいたりすると、単純に人を疲れさせ面倒臭いだけで良いことなど何も無い。神様にとって人の外見は全く関係ない。人がイエス様と個人的に出会い内面的に大きく変わる(精神が安定する)と、それは全ての外見的特徴を乗り越え、その人の魅力となるのだ。私たちは誰と関わるかを選ぶことができるのだから、美しい品性の持ち主と関わり良い影響を受けて、また自分もそのような感化を人に及ぼせる者となりたい。イエス様と個人的に出会う良い第七日安息日を(H.T2024/09/21 07:30)。
→ハロー効果
→サムエル記上16:7
しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
科学の研究においても、また、創造主の知識を得なければならない。すべての真の科学は、物質界における神のみ手の跡の解釈に過ぎない。科学は、その研究の中から、創造主の知恵と能力の新しい証拠を提出するに過ぎない。自然の書物と書かれた言葉とは、正しく理解するならば2つとも神がお用いになる法則が、知恵と慈愛に満ちたものであることをわれわれに教えて、われわれを神に近づけるのである。、、真の宗教は、身体的、知的、道徳的に、人間を神の律法に調和させる。それは、自制と落ち着きと節制とを教える。宗教は、精神を高尚にし、趣味を洗練し、判断を清める。それは、人間を天の清らかさを持った者とする。神の愛と摂理の支配を信じる信仰は、心配や苦労の重荷を軽くする。それは、人間がどんなに高められようが、どんなに低い境遇におかれようが、心を喜びと満足で満たす。、、間が神のみこころに反して思考し、行動するとき、その人は、自分自身に対して、最大の危害と不正を行っているのである。被造物の最善を知って、彼らの幸福のためにご計画になる神が禁じられた道で、真の喜びを見いだすことはできない。罪の道は、不幸と破滅に陥れるが、知恵の「道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である」(同3:17)。 (人類のあけぼの58章・預言者の学校)
神を信じる=科学(サイエンス)を否定する、ではない。また、科学で神の存在を証明できない=神は存在しない、でもない。科学は神様が創造したこの宇宙、自然界、生命の神秘などの、完璧な法則と調和を、限られた人間の能力で、何とか理解するために用いられる道具でなければならない。この宇宙・世界は全知全能の神様の言葉で成った、という考え方が非科学的だと言うのなら、全てが無から生じたという進化論ベースの考え方は何なのだ?それの方が科学的だと言うのか?これはかなり狂った、壮大な嘘(フェイク)理論だと言えるのではないだろうか。一旦落ち着いて常識的に考えれば、無からは普通何も生じないとわかるだろう。0×0を永遠に続けても0だ。嘘をなんとかして証明し、罪深い人間の都合のために科学を利用する、例えば完全なメカニズムである遺伝子機能などをいじり、自然界を操作しようとし、神でも無い人間が神にでもなったつもりで用いる科学は、人を破滅と不幸に至らせるものだ。神様ぬきの科学は狂気で凶器なる、サタンの道具以外の何ものでもない。また、人間が人間の都合のために作成したAI(なんちゃって頭脳)は便利だが、それはただの膨大な過去データの集合体で、それが人や神様を超えるわけもない。天地創造の時に神様は、全てを完全に創造し、全てを良しとした。それを人が操作して更に良くなることはあり得ない。なので科学と聖書の教え、そして天地創造の神様を信じる私たちの信仰と科学を、別のものであると、決してとらえてはいけないのだ。まだ人間の科学では解明されていない宇宙の膨大な神秘を、天国大学で解明し学べることは、救われた者達の多いなる楽しみの一つになるのだと思う。楽しみにしたいものだ(H.T 2024/09/16 06:06)。
イスラエルには、最も戦慄すべき災害がくだった。神の箱は奪われ、敵の手中に陥った。主の臨在と能力の象徴が、彼らの中から取り去られて、栄光は、イスラエルから離れた。、、彼らは、自分たちの信仰が、ただ名だけの信仰であって、神を動かす力を失っていたことに気づかなかった。箱の中の神の律法も神の臨在の象徴であった。しかし、彼らは、律法を軽蔑してその要求をさげすみ、彼らの中の主の霊を悲しませた。人々が聖なる戒めに従った時には、主は彼らと共にあって、主の無限の力によって彼らのために働かれた。しかし、彼らが箱を見ても、それを神と結びつけず、神の律法に従って神の啓示されたみこころを尊ばないならば、それは、普通の箱と同様になんの役にも立たない。彼らは、偶像国の人々が、その神々を見るように箱をながめ、あたかもそれ自体に能力と救いの要素があると思った。彼らは、そのなかの律法を犯した。箱の礼拝そのものが、彼らを形式主義と偽善と偶像礼拝に陥れた。彼らの罪が、彼らを神から引き離した。だから神は、彼らが悔い改めて悪を捨てるまでは、彼らに勝利を与えることがおできにならなかった。契約の箱と聖所が、イスラエルの中にあるだけでは十分でなかった。祭司が犠牲を捧げ、人々が神の子供と呼ばれるだけでは十分でなかった。主は、よこしまな心をいだいた者の願いを聞かれない。「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」と記されている(箴言28:9)。(人類のあけぼの57章・契約の箱ペリシテ人に奪われる)約40人ほどの著者達が神様に導かれ、約1600年間という時間の幅の中で書かれた書物が聖書だ。そこには善と悪との闘い、イエス様による罪の贖い、終末時代の諸事件や再臨などが記され、そのテーマはみごとに一貫している。多くの著者達のコラボによって書かれた聖書だが、その中でも内容があまりにも重要なので、神様が灼き刻む炎の筆で岩に直接書かれたのが出エジプト記20章の十戒だ。全知全能の神様が唯一直筆で記された箇所に間違いがあったり、時の流れによって古くなり効力が消えるようなことは無い。ましてや、その内容を勝手に変えたりすることは、決定的な神様への冒涜(聖なるものを汚す)以外の何ものでもない。その教会(ローマ法皇教)は伝統(人の文化風習)とその勝手な権威(自称)の下で、十戒の第二条(偶像を拝んではならない)を削り、第四条(天地創造の記念、聖なる第七日安息日)を、太陽礼拝の象徴である第一日(日曜日)に変更し、数合わせのために本来の第十条を2つに割る、というようなことをしている。完全にアウトだ。このサタンの代理組織が自分達の権威の印であるとうたう日曜日礼拝に、その意味を知りながら参じてはいけない。それどころか、そもそも十戒の全部そのものが私の心の中で何の意味もなさなくなってはいないだろうか。これは恐ろしいことだ。イスラエルの民と同じくこの掟をさげすんでいるのなら、近々来る選びの時に間違った礼拝(獣の刻印)を受ける可能性がとても高い。それは滅びに至る。要注意だと思う(H.T 2024/09/09 08:12)。
エリは、家族の管理に関する神の規則に従って、彼の家を治めなかった。彼は、自分の判断に従った。甘い父親は、彼のむすこたちの子供時代の欠点や罪を見過ごしにし、しばらくすれば、彼らの悪い性癖はなおるものだろうと安易に考えた。今も、それと同じようなまちがいを犯している者が多い。彼らは、神がみことばのなかにお与えになった方法よりも、さらにすぐれた子供の教育法を知っていると思っている。彼らは、子供たちに悪い癖をつける。そして、「彼らは、まだ小さくて、罰することはできない。大きくなるまで待って、よく言いきかせよう」と申しわけをする。こうして、悪癖は助長されて、第二の天性になってしまう。子供たちは、抑制を受けず、彼らの生涯を通じてののろいとなり、また他の人にも伝染する可能性のある品性の傾向をもって成長する。青年たちに、好きかってなことをさせておくことほど、家庭にとって大きなのろいはない。親が、子供たちの欲することをみな許し、彼らのためでないと知っていることをしたいままにさせておくとき、まもなく子供たちは親に対する尊敬を全く失い、神または人の権威も全然認めなくなり、サタンの意のままに捕虜になってしまう。よく治められない家庭の感化は遠くまで及び、社会全体を不幸に陥れる。それは、悪の潮流のように高まって、家族、社会、国家に影響を及ぼす。(人類のあけぼの56章・エリとむすこたち)
子供が望むことを何でもしてあげる、そういう傾向が強く見られる現代の親にとっては耳の痛い話だが、本当にそうだと感じる。また相手が子供だけでなく、それが恋人であろうと、親友であろうと、兄弟であろうと、意見のぶつかりを恐れて正しい忠告をしないのは、アダムがエバの訴えと彼女との関係を優先して、つまり神様との関係を下にして、善悪を知る木の実を食べてしまったのと同じ精神だ。親の、「いまはまだわならないだろうから、もう少し大きくなってから注意しよう」という手法はだいたい失敗する。小さく丁寧な軌道修正(注意や我慢)の積み重ねで人の品性は成長するものだ。神様の正しい教えを守らせることには妥協無く、しかし失敗した時には叱責せず、それを次への成長のチャンスにする、そのような態度が誰にも必要だと思う。記憶に残る恩師はだいたい厳しいけど愛情のある先生だった。その時はムカついたかもしれないけど、振り返れば私のことを心から思っていてくれたと感じられる。親も私達も同じだ。タフラブを実践できる者となりたい(H.T 2024/09/06 06:45)。
この世で成功を収め、来世の獲得にも成功することは、小事を忠実に、良心的に行うことにかかっている。完全さは、神のお造りになったものの中の大きいものと同様に、小さいものの中にも見られる。宇宙に諸世界を掛けた手は、巧みに野の花を造った手であった。そして、神がその領域で完全であられるように、われわれも、われわれの領域で完全でなければならない。均整のとれた強く美しい品性は、1つ1つの義務を行う行為によって築かれる。そして、われわれの人生の大きな事と同様に小さい事においても、忠実さが特徴とならなければならない。小事に忠実であること、小さな忠誠ある親切な行為は、人生の道を楽しいものにする。そして、われわれの地上の仕事が終わった時に、われわれが忠実に行った義務の1つ1つは、よい感化を及ぼしたことを知る。そうした感化は、いつまでも消えないのである。(人類のあけぼの55章・幼児サムエル)
あまり楽しくないようなことを忍耐強くこつこつするとに意味がある、そんな考えは流行らない時代になってきた。コスパが、タイパがなどと言う世代は、すぐに楽しめるイージーなことを選ぶ傾向にある。お金儲けに関してもそうだ。「石の上にも三年」などという概念は死んでしまったのだろうか。しかし、アピールするためでもなくこつこつ努力して、小さなことにも忠実な人で、大きく失敗して評価を下げたり、他人に嫌がられたりするケースを見たことがない。人も神様も頑張る人を応援するものだ。これは動かぬ真実なのではないか。そのような姿勢は誰かがどこかでちゃんと見ているし、誰も見ていなかったとしても神様が見ている。ダニエルやヨセフやサムエルなどは、突然評価され大切な仕事を任されたわけではない。彼らの日々の忠実な、楽をしようとしないワークエシック(職業倫理)が、上司や同僚のシンパシー(共感・賛同)を買い、それが証となり、更に神様のお導きに謙虚に従うことで、当時の魅力的なインフルエンサーになったのだと思う。誰もしたくない仕事をニコニコ率先してする、これ鉄板。そのような者になりたい(H.T 2024/09/05 12:16)。
「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、……あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである」とヨシュアは言った(同24:19)。真の改革が伴われるに先だって、人々は、自分たちの力だけでは、神に従うことが全く不可能であることを自覚しなければならなかった。彼らは律法を犯したために、罪人とされ、なんののがれる道も与えられなかった。彼らが自分自身の力と義にたよっているかぎり、罪の赦しを得ることは不可能であった。彼らは、神の完全な律法の要求を満たすことはできず、神に仕えると誓ってもむだであった。ただキリストを信じる信仰によってのみ、罪の赦しが与えられ、神の律法に従う力を受けることができるのである。彼らが神に受け入れられようとするならば、自分の力にたよって救いを得ようとするのをやめ、約束の救い主の功績に全的に信頼しなければならない。 (人類のあけぼの49章・ヨシュアの決別の言葉)
「愛の神様なのだから、最終的には少々の罪くらい許してくれるでしょ、自分は極悪人なわけじゃないし」、という考え方で今の自分の生活を捨てないのなら、それは完全に神様をなめて調子に乗っている証拠だ。私達は全知全能でこの宇宙を創造された偉大過ぎる神様とそのような駆け引きができる存在でも立場でもない。己の罪深さを自分の力ではどうすることもできません、自分は完全にへりくだり悔い改め、全てをイエス様にお委ねし罪を避けるように努めます、という魂の底からの叫びが上がる時、神様は私たちを祝福し強めて下さる。私達は人間的に一番弱い時に、一番強いのだ。自分の人生は自分でそこそこコントロールできていて、自分の才能と努力が故に日々の生活はまあまあ安定しているよ、などと間抜けな勘違いをしないようにしたい。何度も言うが、「罪=十戒を犯す」だ。簡単に言うと、神様以外を神としない、刻んだ偶像を礼拝しない、神様の名前をみだりに唱えない(OMGとか)、創造記念の第七日安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)を覚えて聖とする、父母を敬う、人を殺さない、姦淫(結婚外の性交渉)をしない、盗まない、偽らない、貪らない、この至ってシンプルな十条だ(出エジプト記20章を参照あれ)。しかし自分の努力では無理なので、イエス様がセットになって下さっている。十戒はイエス様とセットじゃなきゃ意味が無い。良き備え日を(H.T 2024/08/16 6:48)。