書を学ぶ上で

▶聖書は、すべての原典において、神の霊感を受け書かれた、神の御言葉であり、イエス・キリストを証しし、福音(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に記されたイエス・キリストの生涯や教え、イエス・キリストによって啓示された、人類の救いと神の国に関する喜ばしい教え)の真理を示すものである。
→聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(テモテへの手紙二 3:16)

▶聖書は、信仰と生活に関する唯一の存在であり、合理主義的解釈(すべてを本能や感情に支配されずに、道理に従って判断、行動し、合理的なもののみを認めようとする考え方)や実存主義的解釈(人間の実存を哲学の中心におく考え方)、教会独自の伝統的解釈をすることは適切でない。

聖書は、字義通りの解釈を行い、韻文(聴覚に一定の定まった形象を感覚させる一定の規則に則って書き表された文章で俳句、和歌なども韻文に含まれる。⇔散文)は韻文として、散文(小説や評論のように、俳句〈五・七・五〉などの韻律や句法にとらわれずに書かれた文章)は散文として解釈しなければならない。

また比喩的表現は比喩として解釈するが、比喩的言葉でないものまで象徴的、比喩的に解釈し、本来の意図と異なった結論を導き出すことは適切ではない。
→何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙二 1:20~21)

▶キリスト教は第二神殿時代のユダヤ教(モーセのシナイ契約とそれに付随する伝承を重視し、トーラー〈モーセ五書〉とタルムードを聖典とし、神の唯一性を強調する)にルーツを持ち、聖書を学ぶ上で、その時代や文化的背景、そしてユダヤ的な解釈も知る必要がある。

▶創造主なる神は、永遠に❶父と❷子と❸聖霊の「三位一体」(→三位一体の言葉自体は聖書には出てこない)であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくされる。

❶父なる神は、永遠の御旨によって万物を創造し、他に左右されない主権をもって万物を支配しておられる。

❷イエス・キリスト(御子)は、神でありながら、罪人を贖い救うために処女マリヤを通して生まれ、人となられ(受肉)、人間(=罪人)の身代わりとなって十字架にかかり、ご自身を完全な犠牲として父なる神にささげ、贖いを成し遂げられた。そして、復活されたキリストは、天に昇られ、父なる神の右に座し、私たちのために執り成しをしておられる。そして、やがて栄光のうちに再臨される。

❸聖霊は、イエス・キリストの御業(みわざ)を私たちに適用してくださる助け主であり、イエス・キリストの証人となることができるように、力と賜物を与えてくださる。
→マタイによる福音書28:19、フィリピの信徒への手紙2:6~8、ペトロの手紙一 2:24、ヨハネによる福音書15:26

▶人間は、「神(のかたち)」に似せて造られた(創世記1:26~27、5:1~2)が、罪に堕ち、神に背く者となった(創世記3:6)。それでも、神はなおも私たち人間を愛し、イエス・キリストの十字架による救いを備えられた。自らの罪を認めて、イエス・キリストを救い主として信じる者は、罪の中に霊的に死んでいた状態から、イエス・キリストによって命が与えられ、新生させられる。また、義と認められ、罪が赦され、神の子とされ、永遠の救いの相続人として聖霊による証印が与えられる。
→ローマの信徒への手紙3:19~24、エフェソの信徒への手紙2:1~9、ヨハネによる福音書1:12~13、コリントの信徒への手紙1:21~22

▶教会は、イエス・キリストのからだであり、またその花嫁であって、神に選ばれ召された信徒の集まりである。そして、教会は礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと聖餐等の礼典を行ない、信徒を整え、愛のわざに励みつつ、再び来られる主を待ち望む信徒の集まりである。
→エフェソの信徒への手紙1:23、4:11~16、ヨハネの黙示録19:7、使徒言行録2:42~47