三田市の由来

三田市の由来
これには、二つの説があります。

兵庫県の南東部にある三田の地は、1300年余り昔、屋敷町に創建された「金心寺(こんしんじ)」(現、三田市天神3丁目28−45)の門前町として栄えました。
金心寺には弥勒仏、薬師仏が祀られていました。その弥勒菩薩(秀吉の焼打ちにあった際、僧の機転で蓮池に投げ込まれ、消失を免れた。)の修理の際、その胎内から、「当地を松山の庄と号す。これを金心寺三福田の三田を以って三田と改む。(当地は松山庄と言うが、これを金心寺三福田により三田と改める)」と記されている墨書(ぼくしょ)が見つかりました。

仏教の開祖、釈迦は、親切にすべき相手を三つの田圃(田んぼ)に例えて教えています。これを三福田(さんふくでん)といいます。その三福田とは ①悲田(ひでん、困っている人)、②恩田(おんでん、恩人)、③敬田(きょうでん、尊敬するに値する人)の三つを言います。

この三福田が「三田(さんだ)」の地名の由来となったとされています。

しかし、上記の話は後世になって作られたという説で、今では次のように解釈されています。

もともと、この三田地方には、「みた(屯田、御田)」という地名が存在していた。
そして、ここ教会がある「下深田」の「深田」は「みた」(深は、「み」とも読む)と呼ばれていた。

ところが、当時の淡河三津田(or満田)〈「おうごみつた」と読む〉城の城主である有馬則頼(ありまのりより)が、「みつた」と「みた」とはよく似ており、紛らわしいので、この「三田」の地を「みた」ではなく、「さんだ」と読ませるようにした。

「三田市史」では、この説を採っています。

ちなみに、三田盆地一帯は、80~150万年前は「古神戸湖」という大きな湖であった。
また、「有馬」は、アイヌ語で「燃える谷」という意味だと以前、読んだ本には書いてありました。

地図:三田市役所