に過ぎず、賢きに過ぎず

▶新共同訳 コヘレトの言葉7:16~17
善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。

▶聖書協会共同訳 コヘレトの言葉7:16~17
あなたは義に過ぎてはならない。/賢くありすぎてはならない。/どうして自ら滅びてよかろう。
あなたは悪に過ぎてはならない。/愚かであってはならない。/あなたの時ではないのに、どうして死んでよかろう。

▶口語訳 コヘレトの言葉7:16~17
あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。
悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。

こんな故事がある。

中国戦国時代に「屈原(くつげん)」という役人がいました。彼は正義感が強く、清廉潔白な人でした。楚の懐王(在位:BC329~299年)に重んじられ、国政を執ってすぐれた手腕を発揮しました。

しかしその一徹で正義感溢れる性格が災いし、彼を快く思わない者たちから妬まれることとなり、策略により、国を追われ辺境の地に左遷、流浪の身となりました。

屈原は川のほとりに一人立ち、天を仰ぎ濁世を嘆きました。するとそこへ一人の舟に乗った漁師が現れ、言いました。「確かにそうかもしれないが、濁世にひとり、高く己れを守って生きる以外の道はまったくお考えにならなかったのですか。」これに対し、屈原は断固として、「この身に世俗の汚れを受けるくらいなら川の流れに身を投じて魚の餌になった方がましだ。」と言いました。

すると漁師は言いました。「川の水が清らかに澄んだ時は自分の冠のひもを洗えば良い。もし川の水が濁ったときは自分の足を洗えば良い。」と。

大河の水のように、世の中はときに澄み、ときに濁る。いや、川の流れと同様に、おおむね濁っているときの方がはるかに多いかもしれない。濁水をただ嘆くな。清らかに澄んでいないことを嘆き怒っているだけでは生きては行けない。できることからやっていく、これが大事だ。そして、幸いに水が澄んだら自分の大切な魂を洗えばよいのである。

参考:「大河の一滴」五木寛之 著