聖書にある派閥
ユダヤ教の四派(ファリサイ派、サドカイ派、熱心党、エッセネ派)
自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる事件で国民の政治に対する信頼は揺らぎ、派閥政治に厳しい目が向けられています。
聖書にも芳しくない派閥の姿があります。
▶貧困者に支持者の多いファリサイ派
→ヘレニズム(=ギリシア風)文化に対して否定的
ユダヤ教の教派で、イエスの時代に最も高く評価されていたのはファリサイ派で、現代のユダヤ教の諸派もほとんどがファリサイ派に由来している。ファリサイ派はハスモン朝※1時代に形成され、死後の世界を信じ、律法を守ること、特に安息日や断食(週2回、木曜日と金曜日)、施しを行うことや清めの儀式を強調した。
律法学者(モーセ五書〈トーラー〉-創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記-を研究する学者)の多くがファリサイ派に属し、聖書(旧約)の独自の研究と伝承による解釈を固執、主張した。聖職者である律法学者(ラビrabbi)を信仰の仲介者とし、ユダヤ人会堂の多くを管理していた。ファリサイ派は、律法を研究、遵守して、どのように生きるべきかについて教えていたために、民衆に尊敬されていた。
ファリサイ派の名称は、「パルーシーム」=「分離する者」あるいは「清い者」を意味するヘブライ語に由来するとされるが、正確には不明である。
ユダヤ人指導者の中には密かにイエスを信じる者もいたが、ユダヤ人会堂から追放されるのを恐れ、このことを公言しなかったし、もし、それが発覚した場合は、ユダヤ人指導者たちは、イエスを信じるようになった者をユダヤ人共同体や会堂から追放した(ヨハネによる福音書9:22)。
イエスを訪問したニコデモは最高法院に属する議員で、ファリサイ派の教師でもあった(ヨハネによる福音書3:1)。
また、ファリサイ派の人々はイエスが自分たちの立場や影響力を脅かすと考え、イエスを殺そうと企んだ(マタイによる福音書26:1~5、マルコによる福音書14:1~2、ルカによる福音書22:1~6、ヨハネによる福音書11:45~57)。
エルサレム神殿の崩壊(AD70年)後はユダヤ教の主流派(神殿に拠っていたサドカイ派は消滅)となり、会堂に集まって聖書を読み、祈りを捧げるスタイルが、ユダヤ教のスタイルとなっていった。
※1:BC 140年頃からBC 37年までユダヤの独立を維持して統治したユダヤ人王朝。BC 166年に起きたユダ・マカバイによるセレウコス朝軍への決起から約20年後に成立。フラウィウス・ヨセフスによればハスモンという名は一族の先祖、祭司マタティアの祖父の名前に由来しているといわれている。
フラウィウス・ヨセフスは、帝政ローマ期の政治家及び著述家である。AD66年に勃発したユダヤ戦争でユダヤ軍の指揮官として戦ったがローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃、後にこの顛末を記した「ユダヤ戦記」や「ユダヤ古代誌」を著した。
ヨセフスは、青年時代にサドカイ派やエッセネ派などを経て、最終的にファリサイ派を選んでいる。
▶富裕層の支持が多いサドカイ派
→ヘレニズム(=ギリシア風)文化に対して柔軟
サドカイ派は、その名を祭司の主流派であるツァドク(ザドク)に由来し(サムエル記下20:25、列王記上1:38~44)、神殿詣(神殿信仰)に重点を置き、そこで犠牲を献げることを教えた。
裕福な上流社会のユダヤ人(サムエル記下20:25、列王記上1:39~45)-祭司、教養のある金持ち、そして貴族に属する人々-でファリサイ派と対立した。彼らはモーセ五書(トーラー)をファリサイ派のような多くのこじつけの議論や問題に陥ることなく非常にまじめに解釈した。
ファリサイ派との違いは、サドカイ派は神が人々を死後によみがえらせることが律法に記されていないことから、死後の世界や復活を信じず、終末論の死後の世界に対する信仰もなかった。
サドカイ派はファリサイ派と異なり、あまり人気がなく、大衆の支持がなかったが、宗教と政治の面では力があり、非常に影響力があった。
▶熱心党
ユダヤ戦争(帝政ローマ期のAD66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争で、ユダヤ属州総督のローマ人フロルスがエルサレムの第二神殿の宝物(17タラントン-17×6000ドラクメ〈1ドラクメ=1日の日当〉/タラントン≒1億円-の金)を奪ったことに端を発している)の時、反ローマの暴動の中核をなしたのは、熱心党(Zealotry)と呼ばれる人たちであった。ヘブライ語で「カーナイーム」、ギリシア語で「ゼーロタイ」(熱心な人々)という。
ローマはユダヤを直接支配下に置き、徴税組織を整備するためとユダヤ人の財産を査定する目的でAD6年(ルカによる福音書2:2:キリニウスはAD6年、シリアの総督になった)に住民登録(人口調査)を実施した(同2:1)。これに対し、唯一の神のみを支配者とするユダヤ人が、ローマ皇帝に納税することは決して許されないと武力で反乱を起こしたのが熱心党であった。
熱心党は、教養というより、律法を守ることを優先し、それが侵された場合は武力で抵抗する考えを持つ教派であった。彼らは神より与えられた救済を考えていたが、この救済をもたらすためには神は人間の協力を頼りにしていると確信していた。勝利するためには暴力の使用を認め、戦いで命を失うことは神の名における聖者になるための殉教だとした。
熱心党運動のイデオロギー(思想傾向、社会等に対する考え方)は、ファリサイ派の中から生じた過激な行動理論であった。熱心党は、ユダ※2を中心としたガリラヤ派と、ザドクを中心としたエルサレム派の二派があった。
特に熱心党の中で最も過激な暗殺者集団は、「ガリラヤの短剣党(シカリー派Sicarii)」(四千人の暗殺者:使徒言行録21:38)と呼ばれ、常に懐に短刀(シカ:ラテン語)を忍ばせ、反対派を暗殺した。
また、激烈な内部抗争もあり、各派閥間の関係も複雑であった。後、民衆の支持を受けた熱心党のゲリラ活動が激化、社会の秩序と治安は失われ、ユダヤは無政府状態に陥った。
熱心党の人々が暴力を正当化した根拠は、民数記25:10~11にあるとしている(歴史によればあまりに過激すぎるのでエルサレムを追放され、略奪や集団虐殺を繰り返して辺境地帯をさまよい、AD73年の春、マサダの戦いで殲滅したとされている)。「ユダヤ戦記」および「ユダヤ古代史」の中で、著者フラウィウス・ヨセフスは、熱心党は過激すぎて、古代イスラエル王国を消滅させた元凶であると記している。
→民数記25:10~11
主はモーセに仰せになった。「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。」
※2:その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こした(AD6年)が、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた(使徒言行録5:37)。
▶エッセネ派
エッセネ派(呼称の語源は不詳)は、ハスモン朝時代から堕落した祭司により行われていた、エルサレムの神殿での礼拝の否定にありました。ファリサイ派から発生したと考えられるが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で、民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している。「エッセネ派」という言葉は聖書には出てこない。このことから、洗礼者ヨハネやイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある。