神の御手

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(フィリピの信徒への手紙3章12節)

私たちは神にしがみついているから安心なのではなく、イエス・キリストの御手が私たちをしかりとつかんでおられるので、私たちは安心でいることができるのです。

仏教の地、京都にキリスト教主義に基づく「同志社」(同志社英学校)を苦難の末、創設した「新島 襄」は、次のように語っています。

「私たちが生きているこの世界は、神の見えない御手によって創造されたのであって(created by his unseen hand)、単なる偶然の産物ではないことを私は知った」。

神の手による導きに対する信仰(同志社校友会)
以下、全文・・・

新島は、神の手による導きに対する強い信仰をもっていました。新島は、この信仰をいつ与えられたのでしょうか。なんと、脱国する前に聖書に関する本を読んだときです。新島はこう書いています。「中国語で書かれたこの短い聖書の歴史の中で、神の宇宙創造に関する単純な物語を読んだ時ほど、創造者という言葉が胸にひびいたことはなかった。私たちが生きているこの世界は、神の見えない御手によって創造されたのであって(created by his unseen hand)、単なる偶然の産物ではないことを私は知った」。(『新島襄全集10』三七頁)

また函館でひそかにベルリン号に乗り込んだときの不安と恐怖のなかで、「私の決心を支えたのは、the unseen hand would not fail to guide meという考えだった」とも書いています。(『新島襄全集7』二五頁)

もちろん、これらは新島の後年の回想ですから、自分の人生を振り返ってのことかもしれません。しかし、神の御手への信仰は、たとえば一八七一年十一月七日付のスーザン夫人に宛てた手紙のなかで、「わたしの未来のすべてを無限から無限にいたる宇宙のすべての出来事を見ておられる神の御手にゆだねます」と書き送っていますし、例を挙げるときりがないほどです。

新島はUnseen Handという表現を日本語でも使っています。明治十五年六月二十五日、京都第二公会で行われた説教のなかで、「ヤコブの一身上の苦労や艱難などは人為によって生ずるといえども、神はまた見るべからざるの手をもってこれを誘導し、しばしば困難に陥らしめ、しばし苦労を嘗めさせ、神を思い神に依り頼む思いを切ならしめ、しかる後、これを救いあげ、その信仰を増し、その心を洗い・・・」と述べています。(『新島襄全集2』六八頁)

卒業生の村井知至の記憶によれば、新島が二度目の渡米に際し、学生たちに別れの演説をしたとき、「わたしの一生はアンシーン・ハンド(Unseen Hand)に導かれ今日に至っている。今後もわたしはこのアンシーン・ハンドの導くがままに行くべきところに行くのである。今わたしがこの別れに臨んで諸君に願っておきたいことは、わたしが万一この務めを終らないうちに、もし天に召される時が来た場合、わたしが心の底から『神よ、われ、わが意のままをなすにあらず、ただみこころのままになし給え』と祈り得るよう、何とぞわたしのために祈ってくれ給え。今、諸君に願うところは、ただこの一事である」と語りました。(「みこころのままに」『新島先生記念集』同志社校友会 昭和十五年 一六一頁)