旧約と新約(旧約聖書と新約聖書)

▶※1:エレミヤ書31:31~34 シナイ契約に替わる「新しい契約」と「救い」の預言
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す(→石の板に刻まれたのと同じ律法が、聖霊によって心の板に記される)。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
→新しい契約はシナイ山でモーセを通して結ばれた契約を破棄するものではない。シナイ山での契約において神はイスラエルの神となり、民は神の命令である律法に従わなければならなかったが、民は神に背を向けてしまった。新しい契約では律法が直接人々の心と思いに刻み込まれ、外面的なしるしや儀式を守るだけではなく、自分たちの幸いのためにも神に心から従う(エレミヤ書32:37~44)。この新しい契約において神は人々の罪を赦し、忘れる。
→ホセア書2:16~20、ヘブライ人への手紙8:7~12、10:16~17

▶※2:ルカによる福音書22:20
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

▶※3:ヘブライ人への手紙8:7~13
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。