103 弟子の覚悟(三人の弟子候補)
ルカによる福音書9:57~62、マタイ8:19~22
ルカによる福音書9:57~62
57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、(弟子入りを申込み)
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う❶人(→マタイ8:19律法学者)がいた。
→ユダヤ人の習慣では、弟子志願者が教師を自分で見つけ、弟子入りを申し出るのが普通であったが、この律法学者の場合は、自信があるのか、口先だけの過剰とも言える熱心さが見て取れ、どこか真意が疑わしく感じられる(自分の弱さを知っていることは、弟子になるための第一歩である)。
【参考】底ひなき 淵やはさわぐ 山川の 浅き瀬にこそ 仇波は立て 素性法師(古今和歌集)
→底知れず深く湛(たた)えた水は音を立てない。山間(やまあい:山と山との間)の浅瀬にこそ、いたずらに騒がしい波が立つのです。果てしない深さの淵は騒ぐことがあるでしょうか。山川の浅い瀬にこそ、ざわざわと波が立つのです、浅瀬では、いたずらに波が立ち騒ぐように、思慮の浅い者は、事に当たって落ち着きがなく、いたずらに大騒ぎする。底ひ:果て、仇波(浪):移ろいざわめく波(徒波)。
素性(そしょう)法師:平安時代中期の歌人、三十六歌仙の一人。僧正遍昭 (へんじょう) の子。