最高法院 ンヘドリン sanhedrin

ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織(ユダヤ議会)、最高律法教育機関でエルサレム神殿内に置かれた。
メンバーは、71人で構成(議長-世襲制の大祭司-と副議長が各1人、議員69人、計71人)された。
「最高法院」「長老会」などで新約聖書に登場する。→下記【参考】1、2参照

⓵モーセが神の命令によって召集した70人の長老に起源を持つとされる(民数記11:16、ユダヤ教のラビ伝承)。
→民数記11:16 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。

⓶権限等については,ギリシア語資料 (新約聖書) とヘブライ語資料 (タルムード伝承) のいずれに依拠するかによって説が異なるが、❶宗教問題を扱う部門と❷政治問題を扱う部門とに分れていたとする説が有力である。

⓷メンバーは、❶サドカイ派(→【参考】3)を代表とするの貴族祭司長(祭司長は、神殿の中での祭儀、財政、警察を担当し、最高法院の中枢であった)のグループ、❷ファリサイ派(→【参考】4)を代表とする律法学者のグループ、❸長老(一般人の代表者、経済的に余裕を持った年配の人で、祭司長と密接な関係を持ち、指導的立場にあった)のグループの三グループから構成されていた。

⓸会合は、安息日や祝祭日を除き、朝のいけにえを捧げる時(AM8時半頃?、AM9時:朝の祈り)から夕刻のいけにえを捧げる時(PM2時半頃?、PM3時:夕の祈り)に行われた。

→ユダヤでは、神殿ないし会堂での祈りが日に3度(AM9時、正午、PM3時)行われた(朝と夕の祈りは必須、正午の祈りは任意)。

⓹司法(裁判)権を行使し、刑の執行を行なうこともできた(イエスが裁判にかけられたころには、死刑宣告をする権限はローマによって剥奪されていた)。

⓺神殿祭儀の監督指導を行ない、祭司や裁判官の任命も行った。

⓻新月と閏(うるう)年の宣言、ユダヤの祝祭日を決定する権限も持っていた。

※AD70年の神殿崩壊後は各地を転々、200年頃からは、ローマ帝国の皇帝テオドシウス帝(在位:AD379~395)によって祭司政治が廃絶されるまで、ティベリアス(AD20年頃、ヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスにより、破壊された村の跡地に建設され、ガリラヤ地方の首都となった。アンティパスの後見人であったローマ皇帝、ティベリウスに因んでティベリアスと名付けられた。→ヨハネによる福音書6:1、23、21:1)におかれ、ローマ帝国内のユダヤ人の政治的、宗教的生活の中心となった。

【参考】 1.四福音書にある「最高法院」「長老会」

【参考】 2.使徒言行録にある「最高法院」「長老会」

【参考】 3.富裕層の支持が多いサドカイ派 →ヘレニズム(=ギリシア風)文化に対して柔軟

サドカイ派は、その名を祭司の主流派であるツァドク(ザドク)に由来し(サムエル記下20:25、列王記上1:38~44)、神殿詣(神殿信仰)に重点を置き、そこで犠牲を献げることを教えた。
裕福な上流社会のユダヤ人(サムエル記下20:25、列王記上1:39~45)-祭司、教養のある金持ち、そして貴族に属する人々-でファリサイ派と対立した。彼らはモーセ五書(トーラー)をファリサイ派のような多くのこじつけの議論や問題に陥ることなく非常にまじめに解釈した。

ファリサイ派との違いは、サドカイ派は神が人々を死後によみがえらせることが律法に記されていないことから、死後の世界や復活を信じず、終末論の死後の世界に対する信仰もなかった

サドカイ派はファリサイ派と異なり、あまり人気がなく、大衆の支持がなかったが、宗教と政治の面では力があり、非常に影響力があった。

【参考】 4.貧困者に支持者の多いファリサイ派 →ヘレニズム(=ギリシア風)文化に対して否定的

ユダヤ教の教派で、イエスの時代に最も高く評価されていたのはファリサイ派で、現代のユダヤ教の諸派もほとんどがファリサイ派に由来している。

ファリサイ派はハスモン朝※1時代に形成され、死後の世界を信じ、律法を守ること、特に安息日や断食(週2回、木曜日と金曜日)、施しを行うことや清めの儀式を強調した。

律法学者(モーセ五書〈トーラー〉-創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記-を研究する学者)の多くがファリサイ派に属し、聖書(旧約)の独自の研究と伝承による解釈を固執、主張した。聖職者である律法学者(ラビrabbi)を信仰の仲介者とし、ユダヤ人会堂の多くを管理していた。ファリサイ派は、律法を研究、遵守して、どのように生きるべきかについて教えていたために、民衆に尊敬されていた。

ファリサイ派の名称は、「パルーシーム」=「分離する者」あるいは「清い者」を意味するヘブライ語に由来するとされるが、正確には不明である。

ユダヤ人指導者の中には密かにイエスを信じる者もいたが、ユダヤ人会堂から追放されるのを恐れ、このことを公言しなかったし、もし、それが発覚した場合は、ユダヤ人指導者たちは、イエスを信じるようになった者をユダヤ人共同体や会堂から追放した(ヨハネによる福音書9:22)。

イエスを訪問したニコデモは最高法院に属する議員で、ファリサイ派の教師でもあった(ヨハネによる福音書3:1)。

また、ファリサイ派の人々はイエスが自分たちの立場や影響力を脅かすと考え、イエスを殺そうと企んだ(マタイによる福音書26:1~5、マルコによる福音書14:1~2、ルカによる福音書22:1~6、ヨハネによる福音書11:45~57)。

エルサレム神殿の崩壊(AD70年)後はユダヤ教の主流派(神殿に拠っていたサドカイ派は消滅)となり、会堂に集まって聖書を読み、祈りを捧げるスタイルが、ユダヤ教のスタイルとなっていった。

※1:BC 140年頃からBC 37年までユダヤの独立を維持して統治したユダヤ人王朝。BC 166年に起きたユダ・マカバイによるセレウコス朝軍への決起から約20年後に成立。フラウィウス・ヨセフスによればハスモンという名は一族の先祖、祭司マタティアの祖父の名前に由来しているといわれている。

フラウィウス・ヨセフスは、帝政ローマ期の政治家及び著述家である。AD66年に勃発したユダヤ戦争でユダヤ軍の指揮官として戦ったがローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃、後にこの顛末を記した「ユダヤ戦記」や「ユダヤ古代誌」を著した。

ヨセフスは、青年時代にサドカイ派やエッセネ派などを経て、最終的にファリサイ派を選んでいる。