聖書

旧約聖書が現在のような形にまとめ上げられたのは紀元前2世紀です。旧約聖書はキリスト教より前に、ユダヤ教徒の聖書として成立しました。しかも、その大半が記された時期はそれより幾世紀もさかのぼります。それらは、ユダヤ教が確立する以前に、古代イスラエルの民によって、書き残された(口伝を含む)書物でした。ユダヤ教はこれを基礎にして成立しました。ですから、ユダヤ教徒にとっては、今でも旧約聖書だけが聖書です。彼らはこれを「ミクラー(Miqra)」あるいは「タナハ(Tanakh、TaNaKh)」と呼びます。ミクラーとは「朗読すべきもの」という意味があります。また、タナハは、旧約聖書をトーラー(Torah:律法)、ネビイーム(Nevi’im:預言者たち)、ケトゥビーム(Ketubim:諸書)という3つの部分に区分し、それぞれの頭文字を並べてこれに補助母音を付けた名称です。

ユダヤ教の聖書がなぜキリスト教の聖書とされたのか
イエス・キリストも彼の弟子たちもユダヤ人として旧約聖書に通じていましたが、十字架にかけられたイエスをメシア(=キリスト)と信じた弟子たちは、次第にユダヤ教からたもとを分かっていきましたが、ユダヤ教の聖書は受容しました。その理由は、メシアを待望する預言(→メシア預言)をはじめ、旧約聖書に記された内容の数々はイエス・キリストにおいて成就した、と彼らが信じたことにありました。そして、後に成立した新約聖書と区別して、これを旧約聖書と呼ぶようになりました。

ユダヤ教の聖書がキリスト教に受容されることにより、旧約聖書に伝わる思想の多くもキリスト教へと引き継がれました。唯一神観、自然観、歴史観、人間観など、キリスト教思想の多くは旧約聖書にさかのぼります。また、ユダヤ教やキリスト教を介して、旧約聖書の物語や思想はイスラム教にも受け継がれました。初期のイスラム教徒が自分たちを創世記に記されるアブラハム(アブラム)の子孫と理解したことなどは、その一例です。

旧約聖書を残したイスラエルの民は、紀元前1200年前後にパレスチナ(地中海東岸の歴史的シリア南部の地域的名称で、パレスチナにはペリシテ人が住んでおり、パレスチナという言葉はペリシテという言葉がなまったものと考えられている)に定住した弱小の一民族でした。紀元前1000年頃に王国に移行した後も、彼らは弱小の民であるがゆえに、南のエジプトと東のメソポタミアに興ったアッシリアやバビロニアといった大国のはざまで翻弄され続けました。国を失ってバビロン捕囚(新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンをはじめとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され、移住させられた)となったのは紀元前6世紀初めですが、捕囚から帰還した紀元前6世紀後半からは、ペルシア帝国の一属州になり、ペルシア滅亡後には、エジプトのプトレマイオス朝の、またシリアのセレウコス朝支配下に組み込まれました。

旧約聖書に記された最も新しい時代は、マカベア戦争と呼ぶ、ユダヤの民がセレウコス朝からの独立戦争に蜂起した紀元前2世紀前半(紀元前166年~紀元前142年)です。その後、独自の王政が敷かれた時期もありますが、紀元後70年、反ローマ独立戦争に敗れたユダヤの民は故地を失い、世界に散在する民(ディアスポラ)となるのです。

古代イスラエルのこのような歴史の中で、旧約聖書は書き記されました。そして、それが、ユダヤ教成立の基礎となり、キリスト教誕生の土壌となり、イスラム教にまで浸透しました。当時の古代オリエントの強大国に翻弄され続けた弱小の民が残した旧約聖書は、こうして、その後の宗教の歴史に計り知れない影響を及ぼすことになりました。

旧約聖書の原文は、古代イスラエルの民が日常的に用いていたヘブライ語(一部はアラム語)で記されています。これを今日に伝えたのはユダヤ教の学者たちでした。それに対して、ローマ世界からヨーロッパ全域に広まったキリスト教は、ながらく、紀元前2世紀に訳されたギリシア語訳旧約聖書を、さらにはラテン語訳旧約聖書を重んじてきました。そこにはヘブライ語聖書にはない書物がいくつも加えられました。それらは日本語で「旧約聖書続編」と呼ばれますが、キリスト教の教派によって、その位置づけは異なります。例えば、カトリック教会はこれを旧約聖書に含めますが、プロテスタント諸派は聖書に含めていません。

参考:物語としての旧約聖書(上)月本昭男 著