一日一生

「一日が終わったら、その日のことは終わりにしなさい。
あなたは自分にできることをした。過ちや失敗があったとしても、できるだけ早く忘れなさい。明日という新しい一日を、澄んだ心で始め、過ぎ去った愚行に邪魔されることなく、高い志を持って進みなさい。」(ラルフ・ワルド・エマーソン)

「Present」という言葉は「プレゼント」、そして「現在」という意味があります。私たちにプレゼントされている「現在」、「今」という時こそが、私たちが生き味わうことの出来るプレゼントです。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ 6:34)

「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」(詩編118:24)

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。」(哀歌3:22~23)

私たちはすでに過去に囚われて生きています。将来のことを思い煩って生きています。そのような私たちに対して、イエス・キリストは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言っておられます。

内村鑑三の名著「一日一生」にも、「一日は貴い一生である、これを空費してはならない」とあります。

フランスの哲学者ミシェル・ド・モンテーニュは、「随想録」において、「私の生涯は、おそろしい災いに満ち満ちたものに思われた。しかし、そのほとんどは実際には起こらなかった」と書いています。実際には起こらないことを、あれこれと心配して生きることは、神様の目から見れば愚かなことです。神が今日だけでなく、明日の造り主であり支配者であることを信じていないからです。

主の祈りの中に、「わたしたちに必要な糧(ギリシア語で「アルトス」、パンの意)を今日与えてください。」(マタイ6:11)があります。「明日も、あさっても、生きている限りお与えください」ではありません。今日なすべきこと(苦労)は、今日一日だけで十分です。ですから、「今日一日を精いっぱい生きる」ことが、大切なのです。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(コリントの信徒への手紙6:2)

「ただこれ前念滞らず、後念迎えず、ただ、現在的の髄(隨念)を持って、打発し得去れば、自然に漸々無に入らん」(菜根譚 後集八一、洪自誠 著)

過ぎ去った過去のことはくよくよせずに流し去り、将来のことに心を悩まさず、ただ日々、目の前に起こることを淡々と行っていれば、自然と無心の境地に入ることができる。