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イスラエルには、最も戦慄すべき災害がくだった。神の箱は奪われ、敵の手中に陥った。主の臨在と能力の象徴が、彼らの中から取り去られて、栄光は、イスラエルから離れた。、、彼らは、自分たちの信仰が、ただ名だけの信仰であって、神を動かす力を失っていたことに気づかなかった。箱の中の神の律法も神の臨在の象徴であった。しかし、彼らは、律法を軽蔑してその要求をさげすみ、彼らの中の主の霊を悲しませた。人々が聖なる戒めに従った時には、主は彼らと共にあって、主の無限の力によって彼らのために働かれた。しかし、彼らが箱を見ても、それを神と結びつけず、神の律法に従って神の啓示されたみこころを尊ばないならば、それは、普通の箱と同様になんの役にも立たない。彼らは、偶像国の人々が、その神々を見るように箱をながめ、あたかもそれ自体に能力と救いの要素があると思った。彼らは、そのなかの律法を犯した。箱の礼拝そのものが、彼らを形式主義と偽善と偶像礼拝に陥れた。彼らの罪が、彼らを神から引き離した。だから神は、彼らが悔い改めて悪を捨てるまでは、彼らに勝利を与えることがおできにならなかった。契約の箱と聖所が、イスラエルの中にあるだけでは十分でなかった。祭司が犠牲を捧げ、人々が神の子供と呼ばれるだけでは十分でなかった。主は、よこしまな心をいだいた者の願いを聞かれない。「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」と記されている(箴言28:9)。(人類のあけぼの57章・契約の箱ペリシテ人に奪われる)約40人ほどの著者達が神様に導かれ、約1600年間という時間の幅の中で書かれた書物が聖書だ。そこには善と悪との闘い、イエス様による罪の贖い、終末時代の諸事件や再臨などが記され、そのテーマはみごとに一貫している。多くの著者達のコラボによって書かれた聖書だが、その中でも内容があまりにも重要なので、神様が灼き刻む炎の筆で岩に直接書かれたのが出エジプト記20章の十戒だ。全知全能の神様が唯一直筆で記された箇所に間違いがあったり、時の流れによって古くなり効力が消えるようなことは無い。ましてや、その内容を勝手に変えたりすることは、決定的な神様への冒涜(聖なるものを汚す)以外の何ものでもない。その教会(ローマ法皇教)は伝統(人の文化風習)とその勝手な権威(自称)の下で、十戒の第二条(偶像を拝んではならない)を削り、第四条(天地創造の記念、聖なる第七日安息日)を、太陽礼拝の象徴である第一日(日曜日)に変更し、数合わせのために本来の第十条を2つに割る、というようなことをしている。完全にアウトだ。このサタンの代理組織が自分達の権威の印であるとうたう日曜日礼拝に、その意味を知りながら参じてはいけない。それどころか、そもそも十戒の全部そのものが私の心の中で何の意味もなさなくなってはいないだろうか。これは恐ろしいことだ。イスラエルの民と同じくこの掟をさげすんでいるのなら、近々来る選びの時に間違った礼拝(獣の刻印)を受ける可能性がとても高い。それは滅びに至る。要注意だと思う(H.T 2024/09/09 08:12)。

エリは、家族の管理に関する神の規則に従って、彼の家を治めなかった。彼は、自分の判断に従った。甘い父親は、彼のむすこたちの子供時代の欠点や罪を見過ごしにし、しばらくすれば、彼らの悪い性癖はなおるものだろうと安易に考えた。今も、それと同じようなまちがいを犯している者が多い。彼らは、神がみことばのなかにお与えになった方法よりも、さらにすぐれた子供の教育法を知っていると思っている。彼らは、子供たちに悪い癖をつける。そして、「彼らは、まだ小さくて、罰することはできない。大きくなるまで待って、よく言いきかせよう」と申しわけをする。こうして、悪癖は助長されて、第二の天性になってしまう。子供たちは、抑制を受けず、彼らの生涯を通じてののろいとなり、また他の人にも伝染する可能性のある品性の傾向をもって成長する。青年たちに、好きかってなことをさせておくことほど、家庭にとって大きなのろいはない。親が、子供たちの欲することをみな許し、彼らのためでないと知っていることをしたいままにさせておくとき、まもなく子供たちは親に対する尊敬を全く失い、神または人の権威も全然認めなくなり、サタンの意のままに捕虜になってしまう。よく治められない家庭の感化は遠くまで及び、社会全体を不幸に陥れる。それは、悪の潮流のように高まって、家族、社会、国家に影響を及ぼす。(人類のあけぼの56章・エリとむすこたち)
子供が望むことを何でもしてあげる、そういう傾向が強く見られる現代の親にとっては耳の痛い話だが、本当にそうだと感じる。また相手が子供だけでなく、それが恋人であろうと、親友であろうと、兄弟であろうと、意見のぶつかりを恐れて正しい忠告をしないのは、アダムがエバの訴えと彼女との関係を優先して、つまり神様との関係を下にして、善悪を知る木の実を食べてしまったのと同じ精神だ。親の、「いまはまだわならないだろうから、もう少し大きくなってから注意しよう」という手法はだいたい失敗する。小さく丁寧な軌道修正(注意や我慢)の積み重ねで人の品性は成長するものだ。神様の正しい教えを守らせることには妥協無く、しかし失敗した時には叱責せず、それを次への成長のチャンスにする、そのような態度が誰にも必要だと思う。記憶に残る恩師はだいたい厳しいけど愛情のある先生だった。その時はムカついたかもしれないけど、振り返れば私のことを心から思っていてくれたと感じられる。親も私達も同じだ。タフラブを実践できる者となりたい(H.T 2024/09/06 06:45)。

この世で成功を収め、来世の獲得にも成功することは、小事を忠実に、良心的に行うことにかかっている。完全さは、神のお造りになったものの中の大きいものと同様に、小さいものの中にも見られる。宇宙に諸世界を掛けた手は、巧みに野の花を造った手であった。そして、神がその領域で完全であられるように、われわれも、われわれの領域で完全でなければならない。均整のとれた強く美しい品性は、1つ1つの義務を行う行為によって築かれる。そして、われわれの人生の大きな事と同様に小さい事においても、忠実さが特徴とならなければならない。小事に忠実であること、小さな忠誠ある親切な行為は、人生の道を楽しいものにする。そして、われわれの地上の仕事が終わった時に、われわれが忠実に行った義務の1つ1つは、よい感化を及ぼしたことを知る。そうした感化は、いつまでも消えないのである。(人類のあけぼの55章・幼児サムエル)
あまり楽しくないようなことを忍耐強くこつこつするとに意味がある、そんな考えは流行らない時代になってきた。コスパが、タイパがなどと言う世代は、すぐに楽しめるイージーなことを選ぶ傾向にある。お金儲けに関してもそうだ。「石の上にも三年」などという概念は死んでしまったのだろうか。しかし、アピールするためでもなくこつこつ努力して、小さなことにも忠実な人で、大きく失敗して評価を下げたり、他人に嫌がられたりするケースを見たことがない。人も神様も頑張る人を応援するものだ。これは動かぬ真実なのではないか。そのような姿勢は誰かがどこかでちゃんと見ているし、誰も見ていなかったとしても神様が見ている。ダニエルやヨセフやサムエルなどは、突然評価され大切な仕事を任されたわけではない。彼らの日々の忠実な、楽をしようとしないワークエシック(職業倫理)が、上司や同僚のシンパシー(共感・賛同)を買い、それが証となり、更に神様のお導きに謙虚に従うことで、当時の魅力的なインフルエンサーになったのだと思う。誰もしたくない仕事をニコニコ率先してする、これ鉄板。そのような者になりたい(H.T 2024/09/05 12:16)。

「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、……あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである」とヨシュアは言った(同24:19)。真の改革が伴われるに先だって、人々は、自分たちの力だけでは、神に従うことが全く不可能であることを自覚しなければならなかった。彼らは律法を犯したために、罪人とされ、なんののがれる道も与えられなかった。彼らが自分自身の力と義にたよっているかぎり、罪の赦しを得ることは不可能であった。彼らは、神の完全な律法の要求を満たすことはできず、神に仕えると誓ってもむだであった。ただキリストを信じる信仰によってのみ、罪の赦しが与えられ、神の律法に従う力を受けることができるのである。彼らが神に受け入れられようとするならば、自分の力にたよって救いを得ようとするのをやめ、約束の救い主の功績に全的に信頼しなければならない。 (人類のあけぼの49章・ヨシュアの決別の言葉)
「愛の神様なのだから、最終的には少々の罪くらい許してくれるでしょ、自分は極悪人なわけじゃないし」、という考え方で今の自分の生活を捨てないのなら、それは完全に神様をなめて調子に乗っている証拠だ。私達は全知全能でこの宇宙を創造された偉大過ぎる神様とそのような駆け引きができる存在でも立場でもない。己の罪深さを自分の力ではどうすることもできません、自分は完全にへりくだり悔い改め、全てをイエス様にお委ねし罪を避けるように努めます、という魂の底からの叫びが上がる時、神様は私たちを祝福し強めて下さる。私達は人間的に一番弱い時に、一番強いのだ。自分の人生は自分でそこそこコントロールできていて、自分の才能と努力が故に日々の生活はまあまあ安定しているよ、などと間抜けな勘違いをしないようにしたい。何度も言うが、「罪=十戒を犯す」だ。簡単に言うと、神様以外を神としない、刻んだ偶像を礼拝しない、神様の名前をみだりに唱えない(OMGとか)、創造記念の第七日安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)を覚えて聖とする、父母を敬う、人を殺さない、姦淫(結婚外の性交渉)をしない、盗まない、偽らない、貪らない、この至ってシンプルな十条だ(出エジプト記20章を参照あれ)。しかし自分の努力では無理なので、イエス様がセットになって下さっている。十戒はイエス様とセットじゃなきゃ意味が無い。良き備え日を(H.T 2024/08/16 6:48)。