執り成しの祈り
モーセはイスラエルの民を滅ぼさないでくださいと執り成しの祈りをしました。
わたし(→モーセ)はひれ伏して、主に祈って言った。
「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。」(申命記9:25c~26)
執り成しの祈りとは、簡単に言えば、他の人のために祈ることです。
すべてのクリスチャンの祈りは、キリストを通して神にささげるものなので、執り成しの祈りです。
イエスは、神と人との間を仲介してくださった(テモテへの手紙一2:5)ので、私たちは他のクリスチャンの代わりに、または救いを求めている人のために、その人たちの願いを、御心のままに聞いてくださるように、執り成しの祈りをすることができるのです。
→テモテへの手紙一2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
聖書は、すべてのクリスチャンが執り成しの祈りをささげるように召されていると、はっきり教えています。すべてのクリスチャンの内には聖霊が宿っておられます。聖霊が御心によって私たちのために執り成してくださる(ローマの信徒への手紙8:26~27、上記聖句参照)のと同じように、私たちも互いのために執り成すべきなのです。
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい(エフェソの信徒への手紙6:18)。
パウロはエフェソの信者たちのために、執り成しの祈りを求めています。
神はすべてのクリスチャンを執り成しの祈りをする者として召されています。クリスチャン一人ひとりが、積極的に執り成しをすることは、神の願いなのです。
私たちが神を尋ね求め、他の人のために、執り成すとき、神は私たちの心の中で働いて私たちをみもとへ引き寄せ、み国のために彼らに接触する天来の知恵を与えてくださいます。
→あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます(ヤコブの手紙1:5)。
わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。
あなたたちに正しく善い道を教えよう(サムエル記上12:23)。
他の人のために執り成しをしないのは罪になるのです。
神はまた、私たちが見ることも理解することもできない方法で、彼らの生活に力強く働きかけ、彼らをみもとへ引き寄せてくださるのです。
→何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります(ヨハネの手紙一5:14~17)。
祈りは、私たちの無力さや弱さを神の全能の力に結びつける、天が定めた方法であり、私たち自身を神のもとへ引き上げる手段である(救い主ご自身も私たちのために執り成しの祈りをしておられる)。
そして、神だけが、私たちが祈っている人の心に触れることがおできになるのです。
【参考】 聖書にある「仲介者」
※口語訳では、ガラテヤの信徒への手紙3:19、20を除き、「仲介者」という表記ではなく、「仲保者」となっている(聖書協会共同訳は、新共同訳と同じで、すべて「仲介者」となっている)。
「祈る手」 アルブレヒト・デューラー