聖書研究会(セブンスデー・アドベンチスト三田キリスト教会)

バプテスマ以降のイエス・キリストの生涯

バプテスマ以降のイエス・キリストの生涯

イエス・キリストがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けたとき、天は開け、神の声が「これはわたしの愛する子」と告げました。そこから始まるイエス・キリストの公生涯は、神の愛が人間の中に現れ、罪に沈んでいる人々を救おうとする神様の行動そのものでした。
荒れ野での四十日の誘惑において、イエスは人間としての弱さを負いながらも、神への信頼と御言葉によってサタンに勝利しました。これは、私たちが試練に直面するとき、神の言葉に立つことで勝利できることを示している(特にヨシュア記などを読むとこのことがよくわかります)。

イエスはガリラヤで宣教活動を始め、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られた。神の国とは、権力や富によって築かれる地上の王国ではなく、心の内に神が支配される世界を言います。イエスは病人をいやし、盲人に光を与え、罪人と食卓をともにされた(このようなことは、我々凡人にはなかなかできない)。そこには、神が差別や偏見を超えてすべての人を愛し、本来の人としての回復(究極には「品性の完成」)を望まれる姿がありました。

「山上の説教」でイエスは、外面的な律法の遵守よりも、心の内の清さと愛を求められました。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」との教えは、人間的な正義を超えた神の愛の原則を示しています。
イエスの生涯は、言葉と行動が一致した愛の模範であり、「仕えられるためでなく仕えるために来た」というその姿勢は、私たちが他者を思いやり、犠牲的に生きることの尊さを教えています。

しかし、イエスの愛は多くの人々に理解されず、神学的知識だけの学者である、宗教的指導者たちはイエスを脅威とみなしました。裏切り、裁判、そして十字架への道――そのすべての苦しみを、イエスは「人の子は仕えるために来た」との使命のゆえに受け入れられました。十字架(第二の死)は決して敗北ではなく、神の愛の極みです。イエスは、自分を釘づけにする者たちのために「彼らをお赦しください」と祈られました。ここに、人間の罪を超える神の赦しと、愛の完全なかたちが示されています。

そして三日目、イエスは死を打ち破り復活されました。この出来事は、神の愛が死にも勝ることを証しし、信じる者に新しい命と希望を与えてくれます。
弟子たちは復活の主と出会い、恐れから使命へと変えられました。
イエスの生涯は、信仰が単なる宗教的形式ではなく、神の愛に応える生き方であることを私たちに教えています。

イエスのバプテスマ以降の歩みは、神が人として共に歩まれる「インマヌエル」の現実を示しています。彼の生涯全体が、私たちに「愛によって生きよ」「神の子として世に光を放て」と呼びかけています。イエスが受けられたバプテスマは、罪を悔い改めた人々と共に立つという”へりくだり”のしるしであり、彼の十字架はその”愛の完成”でした。
復活の主は今も生きておられ、信じる者一人ひとりを通して神の国を広げておられるのです。

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