いただいた内容をそのまま記載しています(一部、追記)。
多
明け方3時半の国道。だーれもいない町外れの交差点の赤信号で停車している私は、不自由なのか、それとも自由なのか。赤信号を含む交通法規など昔からある古い決まりだ、そんなものはフリーで賢い自分や現代社会にそぐわないから、私は従わない!と、そう思った私は信号を無視して「私の自由だ!」と発進した瞬間に、同じような輩(やから・悪事を働く者)が時速120キロで一般道を走り激突して来て、車は大破し、互いに大怪我を負い集中治療室に救急車で運ばれ、色んなチューブに繋がれて生きるか死ぬかの、究極的に不自由な状態になった。それでも私は交通法規などには縛られない、私は自由なのだ!と言うだろうか。もしそうなら脳ミソがお花畑の愚か者だ。他者の安全と自由を脅かす社会悪だなのだから、法によってしっかりと裁かれて当たり前で、誰もそれに異論をとなえることは無いどころか、もっと厳しくしろと言うかもしれない。天地創造の神様が炎の筆で石に刻んだ十戒が古いとか、十字架で廃されたとか、4条の第7日安息日はもう現代に適応しない、などという主張は、上の例より更に愚かしい。イエス様からの真理の自由を、罪の不自由で塗りつぶすサタンの作戦だ。第7日安息日を迎える良き備えを(H.T2024/11/29 (金) 8:05)。
サ
闇夜の森の小道を、明り無しで歩こうとしたとがあるなら分かるだろう。そこは漆黒ですぐに方向感覚がなくなり迷ってしまう。しかし足元を照らす光があれば、それを頼りに道から外れることなく進むことができる。聖書の光りなしで、この罪の世界を迷うことなく歩み行くのは不可能だ。法王教は1260年間もの間民衆が聖書に触れることを禁じた。まさにこの暗黒時代において、人々はローマ法王教の、何の聖書的な意味もない儀式や奇跡に縛られた。手にロザリオを着け、呪文を口に胸で十字を切り、死者(マリアやその他の聖人)の偶像を拝まされ、涙を流すマリア像に手を合わせ、穢れた司祭に犯した罪を告白懺悔し、罪の赦しのために難行苦行を行い、お金を払い免罪符を買わされた。その教えに反する者達を異端だと迫害し拷問し火炙りにし、この教会の社会教義(カテキズム)を聖書の上に置き、石に刻まれた聖書の十戒をいじり、第7日(➡土曜日)安息日を第一日(➡日曜日)に勝手に変更し、これらに従わなければ地獄に落ち永遠の炎で焼き続けられると人々を脅した。信じることにより与えられる救い、イエス様の犠牲の血による罪の贖い、などはどこにも見られないこの巨大組織は、「キリスト教」では無い。キリスト教のように見える、死者・偶像・サタン崇拝オカルト教会だ。その悪魔的で穢れた教えに、聖書の教えのみを高く掲げ、断固としてプロテスト(抵抗)するのがプロテスタントだ。そのプロテストの火ぶたを切ったルターがこの教会の扉に抗議文を打ち付けたのが、10月31日だ。ハピーハロウィーン(穢れた死者の祭りがハピーなわけないが)とか言っておバカな仮装をして浮かれている場合では無い。サタンはこの決定的に大切で重大な意味のある宗教改革の開始日を、どうでもいいハロウィンで塗り潰そうとしている。しかし私達は何があっても聖書中心主義だ。なので当然第7日安息日も聖別し覚えるのだ。良き安息日を(H.T2024/11/02 (土) 7:22)。
もし誰から意見をもらわなくても自分で何かを決められる立場にいるなら、ダビデと同じ誘惑がある。一国の王でなくても、人は少しでも自分が何かを判断できるポジションに立つと、神様に一つ一つの選びをどのようにすべきかと問う、そのアドバイスを求める熱心な祈りをしなくなる。神様の方法ではなく、自分の方法で、自分の欲を満足させる計画を推し進めるのなら特に注意だ。ゴリアテに立ち向かった少年ダビデは何の地位も力もなかったが、全てを神様に委ね、あり得ないと思われる勝利を得た。全ての地位と力を得たダビデ王は、全てを神様に委ねて問うことを忘れてしまい、大きくつまずいてしまった。このパターンは私達にもお馴染みのことだと言えないだろうか。どのような時でも謙虚に、いちいち神様に最善の方法を祈り求めつつ、イエス様ならどうするだろうと考えつつ、生きたい(H.T2024/10/17 (木) 12:34)。
あ
人の心の移ろいは全くあてにならないものだ。昨日はすごく前向きハイテンションで気分も上々だったのに、ちょとしたことをきっかけにこの世の終わりかと思うくらいに落ち込む。同じように、ダビデの寛容に深く恥入り反省したサウルの心も、あっという間に嫉妬心と憎しみが再燃し、それは以前より強いものとなった。一度気持ちがその方向に進み始めると、自分でそれが間違っていると分かっても引っ込みがつかなくなることがある。そして自分を正当化する理論武装を重ねに重ねて、誰の意見も聞く耳も持てなくなる。気分がよくても悪くても、物事が上手く行っても行かなくても、絶えず神様の示す方法を知ることを願い求め、それが何であるかを確認したら躊躇わず実行する姿勢が必要だと思う。自分の行動を神様ぬきで、自分の感情に任せると良いことはない。マイナスの感情は自己中心(罪)の結晶なのだから(H.T2024/10/08 (火) 12:22)。
サウルのようにいい大人が、人の賞賛や承認、「いいね👍」ばかりを気にしているのは痛すぎるしみっともない。ダビデのように神様を褒め称え、神様の目に自分がどのように映るかを意識することが何よりも大切だ。ダビデは神様のためならとても大胆だったが、自分のことに関しては「慎重で忠実」だった。サウルは逆だ。彼は人が自分をどのように評価するかばかりを気にして、神様のことは二の次だった。自分より人気の出てきたダビデを嫉み、そのことで気分がころころと変わる情緒不安定な国王などは、どう考えてもややこしくて面倒な奴だ。そしてこの精神は世界一面倒で性格のこじれ曲がったサタンのものと同じだ。嫉妬心は人の心に大きく黒い負のエネルギーを蓄積して、それは陰口や復習や嫌がらせなどに繋がる。今、間も無く再臨を迎えるこの時に、私達はそんなことをしている暇はない。自分を誇るのではなく、イエス様を誇りたい。良き、イエス様の第7日安息日を(H.T2024/10/05 (土) 6:14)。
最近は熊の出没ニュースがよく話題になり、そのような地域の親は子供を車で学校に送迎するような時代になった。少年ダビデの頃は羊飼いが熊やライオンと投石器のみで対峙することは当たり前のことのようで、もちろん神様のお守りもあったろうが、彼らは大人抜きで勇気を持って野獣問題を解決していた。何と自立して勇敢で雄々しいことだろう。精神的にも肉体的にも虚弱になり、虫さえ触れないような現代人の感覚では理解できない。ワイルドだが、しかし琴を奏でたり詩を歌ったりする芸術的な感性も兼ね備え、その一見アンビバレント(→一つの物事に対し、全く相反する感情、態度、考え)な意外性が神様に用いられる全人的な品性の基でもあり、魅力でもあったのだろう。モーセも、ダビデも、イエス様も、ペテロも、パウロもみな肉体労働者で、自然のエレメント(→要素、成分)を日々感じながら生活していた。そもそも神であられるイエス様はこの地上では、王子でも、CEOでも、行政者でも、教授でもなく、荒くれ男たちに囲まれたただの大工だった。神様に用いられた彼らの共通項は、今の私たちにとっても意味深いと思う。強く、雄々しく、優しくありたい(H.T2024/10/01 (火) 12:29)。
サウルは今で言う精神疾患に苦しめられた。苦しめられたというより、悔い改めずに自分のことの心配ばかりして、しかも神様を責める気持ちまで持ってしまったので、サタンが自分のレプリカのような彼の心を支配しやすくなったと理解する方が正しいだろう。心の憂いは自己中心な人間の患いやすい、罪の病だ。このような精神的な問題が、この世界と私達の心を舞台とした、イエス様とサタンの間の大争闘と無関係に起こるわけが無い。また精神疾患は遺伝なので仕方ないという考えもだいたい間違っていて、その影響は統計的に見ても数パーセント以下なのだ。全てが人の選びにかかっている。神様を信じているふりをしながらも、何かの罪を諦められず、悔い改めきれていないと、いつまでも心が病む。しまいには病むのが当たり前になり、それを言い訳にやるべきことから逃げたりもする。接する人にしてみればただの面倒な奴だ。さすがのダビデもこの情緒不安定(メンヘラ王)サウルに癒し音楽を奏でた後、自分の住む大自然に帰ると安心したようだ。その気持ちわかるような気がする。人を1番疲れさせるのは人だ。そして人を1番癒すのもイエス様の愛を実践し祈りつつ接してくれる人、そして大自然だ。聖書の言葉と大自然に触れて、絶えず感謝して神様を褒め称え、賛美する心を持つ者の心は健康だ。自分よりも神様を優先すると、サタンは心から閉め出される。ずっと去っていただこう(H.T2024/09/30 (月) 6:05)。
自然を愛でる心を持った謙遜で男らしい少年、これらの要素を兼ね備えたダビデが神様の選ばれた将来の指導者・預言者だった。人の魅力は何か、男らしさとは何か(今の時代男らしさとか、女らしさとか言うと差別者あつかいされるけど関係無い)という問いに対するアンサーだ。そもそも彼は荒々しい自然の中で働く肉体労働者であって、宮廷や地位のある家庭で柔らかい綺麗な衣をまといちやほやされたソフティーではなかった。自然(アウトドア活動)は私たちに謙虚さと優しさを教えてくれる。インドア(ネットワールド)は私たちを調子に乗らせる、とまで言ったら言い過ぎだろうか。でも一理あるような気がする。サウルとダビデの決定的な違いはここらへんだったのかもしれない。油注がれたダビデはその指名(使命)にびびる事もなく、自意識過剰になることもなく、普通に羊飼いの仕事に戻り、慌てずに神様の時を待った。この姿勢を見倣いたい。彼の祈りと賛美に溢れた野外生活は、神様が私たちに求める、現代人の忘れかけている、あるべき理想の姿なのかもしれない。イエス様が迎えに来られる再臨の時には、多くの救われるべき者達は山に逃れ、少年ダビデのような荒くれの生活をしていると、預言(予測)されている。今からでもその練習をするのは悪くないと思う。部屋の中にいてバーチャルな画面ばかり眺めていないで、神様の創造の御業を愛でるために外に出るのはいかがだろう(H.T2024/09/29 (日) 6:50)。
「謙遜で教えを受ける精神」、は今もあるだろうか?最初の頃はあったのに、それなりの経験を積み、気づかないうちに傲慢になり調子に乗ってはいないだろうか。最初のころのサウルも、自信も経験も無く、神様の指示に素直に従っていた。なので祝福されたのだが、彼はすぐにそのことは忘れて調子に乗り、それがあたかも自分の手柄であるかのような態度をとった。そうなると謙遜に教えをいただくという、品性の宝のような精神は、風船の空気が抜けるように萎んでしまう。成功し続ける者はいつも謙虚に学ぶ気持ちがあり、その思いが途切れることがないのだと思う。何よりも私達は、神様に対してこの姿勢を持ち続けなければならない。神様に示されたアドバイスには、だって、でも、だけど、などと言わないで、「はいわかりました、そのようにさせていただきます」と言い、それをためらわず実践してみることだ。これは自分の考えで自分のために生きるのか、イエス様のために生きるのかの、人生の目的が何なのかを分ける、大きな精神的分岐点なのではないかと思う。それぞれの選びだ(H.T2024/09/26 (木) 12:25)。
「頭下げ、下がる名誉無し」という誰かの名言があるが、本当にそうだと痛感する。昨今のニュースを賑わす色々な不祥事事件などを見ていると、綺麗に謝罪するのと、保身の言い訳をしつつ歯切れの悪い謝罪をするのとでは、その後の受け入れられ方に雲泥の差があるのがわかる。時には謝罪が潔く、以前よりも評価が上がる場合さえある。自分に優しく人に厳しい者は、自分の非を認める前に(認めもしないが)、言い訳ばかりを言う。サウルのように自己顕示欲の強い、いい大人は、ただひたすら面倒な存在だったと思う。自分もそうなっていないか注意しなければいけない。また自分ができてもできなくても、人を非難するのはイエス様の方法ではない。非難するくらいなら、わかりやすく教えてあげる方がよほど気が利いている。もし自分が人の上に立つような立場なら、気分の浮き沈み(情緒不安)と批判的な態度は、1ミリも表してはいけない。そのような態度は接する人を精神的に病ませるだけで何の証にもならない。謙遜さ、それはどの時代にも共通する輝く品性の要素だ。私のネガティブな気分は神様にお任せし、自己アピールてはなく、イエスアピールにこだわりたい(H.T2024/09/24 12:29)。
神様に信頼し自分の全てをお委ねすれば、全知全能の神様が全ての責任をとって下さる。これ以上に心強い約束はないと思う。これには、愛の神様の法則である十戒に忠実であるという条件が伴う。自分の気分や衝動、人の意見やアドバイスを1番にすると、サウルのように不遜で痛く残念過ぎる結果になる。人は自分の好きな意見を集めたがるし、自分と親しい者はこちら聞きたいことだけを言う傾向にあるので要注意だ。何事もまずは神様の1番良しとする方法を求めずして、その他の方法を上にしてはいけない。自分のやりたいことを、何に縛られることもなく自由にすればいい、そのような考え方が現代人の主流になってしまっているが、これは罪が深まった最も危険な状態だ。サタンはそのような人間の勝手わがままな状態を散々煽(あお)ってこの終末世界をカオスにしながら、あたかもそれに対する解決策のように間違った宗教(日曜日遵守、死者崇拝、偶像礼拝)を押しつけて来る。何をするにも自分の気分中心だと、このorder out of chaos (混乱からの間違った秩序)作戦に呆気なくやられてしまう。今日も全てを神様にお委ねしつつ過ごしたい(H.T2024/09/23 07:50)。
神様の道徳的基準が軽視され、品性の美しさが何であるかの定義がぼやけ、人の外見を重んじる社会では、いわゆるルッキズム(外見重視主義)がまかり通る。ルックスの良い者の主張は正しいと認められやすく、ルックスの劣った者の主張には価値がなくクズあつかいされるという、とても幼稚で乱暴な発想だ。このことを心理学ではハイロー(後光)効果とも言う。全く同じ能力の2人がいたとしても、ルックスの良い方の能力が高いと見られ、能力があったとしてもルックスが悪いとそれが認められないという、罪の人間のとても浅はかな傾向だ。サウルは背が高くイケメンで、それらしい風格も備わっていたが、彼は若い頃から感情の起伏が激しく、それを克己(自分をコントロールする)精神で治める能力が不十分だった。感情が不安定な者は人間関係が難しく、また人に信頼されにくく、そのような者が親だったり、職場の上司だったり、仲間の中にいたりすると、単純に人を疲れさせ面倒臭いだけで良いことなど何も無い。神様にとって人の外見は全く関係ない。人がイエス様と個人的に出会い内面的に大きく変わる(精神が安定する)と、それは全ての外見的特徴を乗り越え、その人の魅力となるのだ。私たちは誰と関わるかを選ぶことができるのだから、美しい品性の持ち主と関わり良い影響を受けて、また自分もそのような感化を人に及ぼせる者となりたい。イエス様と個人的に出会う良い第七日安息日を(H.T2024/09/21 07:30)。
→ハロー効果
→サムエル記上16:7
しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
神を信じる=科学(サイエンス)を否定する、ではない。また、科学で神の存在を証明できない=神は存在しない、でもない。科学は神様が創造したこの宇宙、自然界、生命の神秘などの、完璧な法則と調和を、限られた人間の能力で、何とか理解するために用いられる道具でなければならない。この宇宙・世界は全知全能の神様の言葉で成った、という考え方が非科学的だと言うのなら、全てが無から生じたという進化論ベースの考え方は何なのだ?それの方が科学的だと言うのか?これはかなり狂った、壮大な嘘(フェイク)理論だと言えるのではないだろうか。一旦落ち着いて常識的に考えれば、無からは普通何も生じないとわかるだろう。0×0を永遠に続けても0だ。嘘をなんとかして証明し、罪深い人間の都合のために科学を利用する、例えば完全なメカニズムである遺伝子機能などをいじり、自然界を操作しようとし、神でも無い人間が神にでもなったつもりで用いる科学は、人を破滅と不幸に至らせるものだ。神様ぬきの科学は狂気で凶器なる、サタンの道具以外の何ものでもない。また、人間が人間の都合のために作成したAI(なんちゃって頭脳)は便利だが、それはただの膨大な過去データの集合体で、それが人や神様を超えるわけもない。天地創造の時に神様は、全てを完全に創造し、全てを良しとした。それを人が操作して更に良くなることはあり得ない。なので科学と聖書の教え、そして天地創造の神様を信じる私たちの信仰と科学を、別のものであると、決してとらえてはいけないのだ。まだ人間の科学では解明されていない宇宙の膨大な神秘を、天国大学で解明し学べることは、救われた者達の多いなる楽しみの一つになるのだと思う。楽しみにしたいものだ(H.T 2024/09/16 06:06)。
子供が望むことを何でもしてあげる、そういう傾向が強く見られる現代の親にとっては耳の痛い話だが、本当にそうだと感じる。また相手が子供だけでなく、それが恋人であろうと、親友であろうと、兄弟であろうと、意見のぶつかりを恐れて正しい忠告をしないのは、アダムがエバの訴えと彼女との関係を優先して、つまり神様との関係を下にして、善悪を知る木の実を食べてしまったのと同じ精神だ。親の、「いまはまだわならないだろうから、もう少し大きくなってから注意しよう」という手法はだいたい失敗する。小さく丁寧な軌道修正(注意や我慢)の積み重ねで人の品性は成長するものだ。神様の正しい教えを守らせることには妥協無く、しかし失敗した時には叱責せず、それを次への成長のチャンスにする、そのような態度が誰にも必要だと思う。記憶に残る恩師はだいたい厳しいけど愛情のある先生だった。その時はムカついたかもしれないけど、振り返れば私のことを心から思っていてくれたと感じられる。親も私達も同じだ。タフラブを実践できる者となりたい(H.T 2024/09/06 06:45)。
あまり楽しくないようなことを忍耐強くこつこつするとに意味がある、そんな考えは流行らない時代になってきた。コスパが、タイパがなどと言う世代は、すぐに楽しめるイージーなことを選ぶ傾向にある。お金儲けに関してもそうだ。「石の上にも三年」などという概念は死んでしまったのだろうか。しかし、アピールするためでもなくこつこつ努力して、小さなことにも忠実な人で、大きく失敗して評価を下げたり、他人に嫌がられたりするケースを見たことがない。人も神様も頑張る人を応援するものだ。これは動かぬ真実なのではないか。そのような姿勢は誰かがどこかでちゃんと見ているし、誰も見ていなかったとしても神様が見ている。ダニエルやヨセフやサムエルなどは、突然評価され大切な仕事を任されたわけではない。彼らの日々の忠実な、楽をしようとしないワークエシック(職業倫理)が、上司や同僚のシンパシー(共感・賛同)を買い、それが証となり、更に神様のお導きに謙虚に従うことで、当時の魅力的なインフルエンサーになったのだと思う。誰もしたくない仕事をニコニコ率先してする、これ鉄板。そのような者になりたい(H.T 2024/09/05 12:16)。
「愛の神様なのだから、最終的には少々の罪くらい許してくれるでしょ、自分は極悪人なわけじゃないし」、という考え方で今の自分の生活を捨てないのなら、それは完全に神様をなめて調子に乗っている証拠だ。私達は全知全能でこの宇宙を創造された偉大過ぎる神様とそのような駆け引きができる存在でも立場でもない。己の罪深さを自分の力ではどうすることもできません、自分は完全にへりくだり悔い改め、全てをイエス様にお委ねし罪を避けるように努めます、という魂の底からの叫びが上がる時、神様は私たちを祝福し強めて下さる。私達は人間的に一番弱い時に、一番強いのだ。自分の人生は自分でそこそこコントロールできていて、自分の才能と努力が故に日々の生活はまあまあ安定しているよ、などと間抜けな勘違いをしないようにしたい。何度も言うが、「罪=十戒を犯す」だ。簡単に言うと、神様以外を神としない、刻んだ偶像を礼拝しない、神様の名前をみだりに唱えない(OMGとか)、創造記念の第七日安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)を覚えて聖とする、父母を敬う、人を殺さない、姦淫(結婚外の性交渉)をしない、盗まない、偽らない、貪らない、この至ってシンプルな十条だ(出エジプト記20章を参照あれ)。しかし自分の努力では無理なので、イエス様がセットになって下さっている。十戒はイエス様とセットじゃなきゃ意味が無い。良き備え日を(H.T 2024/08/16 6:48)。