セブンスデー・アドベンチスト三田キリスト教会(聖書研究会)

信徒からのメール

いただいた内容をそのまま記載しています。

「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、……あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである」とヨシュアは言った(同24:19)。真の改革が伴われるに先だって、人々は、自分たちの力だけでは、神に従うことが全く不可能であることを自覚しなければならなかった。彼らは律法を犯したために、罪人とされ、なんののがれる道も与えられなかった。彼らが自分自身の力と義にたよっているかぎり、罪の赦しを得ることは不可能であった。彼らは、神の完全な律法の要求を満たすことはできず、神に仕えると誓ってもむだであった。ただキリストを信じる信仰によってのみ、罪の赦しが与えられ、神の律法に従う力を受けることができるのである。彼らが神に受け入れられようとするならば、自分の力にたよって救いを得ようとするのをやめ、約束の救い主の功績に全的に信頼しなければならない。 (人類のあけぼの49章・ヨシュアの決別の言葉)
「愛の神様なのだから、最終的には少々の罪くらい許してくれるでしょ、自分は極悪人なわけじゃないし」、という考え方で今の自分の生活を捨てないのなら、それは完全に神様をなめて調子に乗っている証拠だ。私達は全知全能でこの宇宙を創造された偉大過ぎる神様とそのような駆け引きができる存在でも立場でもない。己の罪深さを自分の力ではどうすることもできません、自分は完全にへりくだり悔い改め、全てをイエス様にお委ねし罪を避けるように努めます、という魂の底からの叫びが上がる時、神様は私たちを祝福し強めて下さる。私達は人間的に一番弱い時に、一番強いのだ。自分の人生は自分でそこそこコントロールできていて、自分の才能と努力が故に日々の生活はまあまあ安定しているよ、などと間抜けな勘違いをしないようにしたい。何度も言うが、「罪=十戒を犯す」だ。簡単に言うと、神様以外を神としない、刻んだ偶像を礼拝しない、神様の名前をみだりに唱えない(OMGとか)、創造記念の第七日安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)を覚えて聖とする、父母を敬う、人を殺さない、姦淫(結婚外の性交渉)をしない、盗まない、偽らない、貪らない、この至ってシンプルな十条だ(出エジプト記20章を参照あれ)。しかし自分の努力では無理なので、イエス様がセットになって下さっている。十戒はイエス様とセットじゃなきゃ意味が無い。良き備え日を(H.T 2024/08/16 6:48)。

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