わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。~コリントの信徒への手紙一3:6~7~
・・・いのちにおけると同様に、成長においてもそうであります。つぼみから花を開かせ実を結ばせるのは神であります。種が生長し、「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる」(マルコ 4:28)というのは神の力によるのであります。預言者ホセアは、イスラエルについて 「彼はゆりのように花さき」 「園のように栄え、ぶどうの木のように花さき」(ホセア 14:5,7)と言っています。またイエスも私どもに「野の花のことを考えてみるがよい」(ルカ 12:27)と仰せになりました。木や花は自ら思い煩ったり、努力したりして生長するのではなく、神が与えたもうものによって、そのいのちがささえられ、生長するのであります。子供はどんな思いわずらい、またどんなに努力しても、身の丈を延ばすことはできません。私どもも全くこれと同じで、心づかいや自分の努力では霊的に成長はできないのであります。植物も、また子供たちも、周囲のものからいのちをささえるものすなわち、空気、日光、食物を受けて成長します。動物、植物にとって自然の賜物が必要なように、キリストに頼る者にとってはキリストが必要であります。キリストは、 彼らの「とこしえ・・・・の光」(イザヤ60:19)「日です、盾です」(詩篇84:11)と記されてあります。また、キリストは「イスラエルに対しては露のように」(ホセア14:5) 「刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、地を潤す夕立のごとく臨むように」(詩篇72:6)とあります。かれは、生ける水「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」(ヨハネ6:33)であります。
参考:キリストへの道 エレン・G・ホワイト「成長」より
エズラ記9:6
わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。