セブンスデー・アドベンチスト三田キリスト教会(聖書研究会)

LEAVE & CLEAVE to Become One

LEAVE & CLEAVE to Become One

私が学びの参考にしている「聖書研究ミシガン」の橋川真理さんの証しです。
下記の内容は、『誰の声?』その3「神の声」:前半にあるものを記したものです(一部加筆等)。
(なお、タイトルの“LEAVE & CLEAVE to Become One”はサイト管理者が付したものです。)

“主の声”に聞き従うことを選ぶということは、時には困難な決断が伴うこともあります。そのことを、日曜教会からセブンスデー・アドベンチスト教会に変更した時の私の拙い証をここで述べてみたいと思います。私は、東京にあった福音派に属する日曜教会の牧師の家庭に生まれました。父は神学校でも教えていましたので、私はずっと教会の中と大学のキャンパスの中で育ちました。私が小学校の5年生だった時、ハワイ州ホノルル市内にあるマキキ聖城教会の日本語部牧師として父の赴任が決まり、家族で渡米しました。それから8年後、父のハワイでの任期が終ったので、家族は帰国することになり、父はもとの神学校に戻ることになりました。すでに大学一年生となっていた私は、そのままハワイに残って学びを続けるようにとの両親の強い要望で、一人での生活が始まりました。マキキ聖城教会の近くには、セブンスデー・アドベンチスト教会の高校、ハワイ・ミッション・アカデミーHawaiian Mission Academyがありましたので、“セブンスデー・アドベンチスト”という名前を聞いたことはありました。でも彼らがどのような教えを説いているかなどは、まったく知りませんでした。セブンスデー・アドベンチスト教会に行くようになったのは、大学のキャンパスでふとしたきっかけで会った日本からの留学生(現在の夫)から招待されたからでした。それまでは、クリスチャン四世として牧師の家庭で育った私は、日曜日が主の日”であることを疑問に思ったことなどは一度もありませんでした。しばらくして、安息日について私に聖書研究をして下さった先生は、日本で長年牧師として活躍された後に渡米され方で、私がお会いした当時はすでに現役を引退され、ホノルルのマノア日本人SDA教会の日本語部の牧師として奉仕されておられました。その先生から聖書研究をしていただいた時のことは、それから何十年たった今でも鮮明に覚えています。聖書研究のまず最初に、先生はご自分がセブンスデーになる前は、長老派教会の長老として、私と同じように日曜日に礼拝をされていたということを話されました。私はそのことに大変興味を持ちました。先生は、第七日目の土曜日が真の安息日であることを、聖句から聖句へと進めながら、丁寧に説明して下さいました。私は、聖句を示されて読むたびに、強い衝撃を感じていました。《えぇ?そんなはずはない…》という思いと《でも確かに、聖書にはそう書いてある…》という思いとが、激しくぶつかり合っていました。その時です。先生が急に立ち上がられ、一冊の本を本棚からとってこられ、《この本には、多くの誤りが書かれています。》とおっしゃいました。その本を見た瞬間、私は心臓が止まってしまうようなショックを受けました。その日本語の本は、父の机の上にいつも置かれていたものだとすぐ分ったからです。本のタイトルは、はっきりは覚えていませんが、確か日本の神学者の何人かが共同で執筆した“バイブル・ガイド”、もしくは“バイブル・ハンドブック”というようなタイトルだったと思います。私は、その執筆者の一人が、父だったことを知っていたのです。父はカリフォルニアのフラー神学校で学んでいて、日本でいくつかの本なども出版していました。先生はそのことを勿論ご存知なく、単にその本に書かれている誤謬を示してくださっただけですが、私は頭を何かで強く打たれたような大きな衝撃を受けました。その晩、下宿に戻った私はほとんど一睡もできませんでした。《第七日目が、主の安息日である》という聖書からの“声”がはっきりと聞こえるのですが、しばらくすると、《日曜日が主の日です》という父や、日曜教会牧師として開拓伝道をした祖父や、やはり牧師をしていた二人の叔父たちの“別の声”も聞こえてくるのです。更には《世界中のクリスチャンたちは、皆日曜日に礼拝している。日曜教会の信徒や学者たちが皆、間違っているってこと?そんなこと、考えられない。》と、自分がそれまでずっと信じて疑わなかったことを正当化しようとする“自分の声”も聞こえるのでした。これらの声々が、自分の中で入り混じって、激しい格闘がその夜続きました。《もし私がセブンスデーになったら、両親はどんなに悲しみ嘆くことだろう私が小さい時からずっと可愛がって下さってきた日曜教会の人たちや、仲の良い教会の友達はどう思うだろうか?また日本にいる親族や知り合いから、何と言われるだろう》という不安や恐れもありました。そして父の立場も考えました。父は長年短期大学(現在の東京基督教大学)で多くの学生たちを教えてきましたし、帰国後は学長という立場に置かれていました。また、日本語聖書の新改訳を翻訳した時の旧約の方の執筆者の一人であったとも聞いていましたので、尊敬していた父のことを思わずにはいられませんでした。私は、セブンスデーになることによって失われるものを恐れていたのだと思います。すべてを聖霊に委ねて夜通し泣きながら祈りましたそして、聖書を通して聞こえてくる声”は“神の声”であると確信し、七日目の安息日を受け入れる決心がついた時は、もう朝になっていました。それから神さまは、更なる素晴らしい真理を徐々に教えて下さり、溢れるばかりの恵みをいただいて今日まで歩んでこられたのは本当に感謝です。神の声”に聞き従い、過去の繋がりから離れてキリストと新しく結び付くことを選択する時、失うものよりも、与えられるものの方がはるかに大きいという祝福に、主のみ名を心から賛美致します。ちなみに、当初セブンスデー・アドベンチストを異端と思っていた両親の考えは、少しずつ払拭されていき、私たちのことを温かく見守ってくれました。このように、キリストと深く結び合い神の声に従っていくためには、時には過去の人間関係のしがらみから決別することも必要となることを、私は経験させていただきました。人によっては、伴侶の声や親しくしている人の声よりも、神さまの声を優先された経験をお持ちの方々も多くおられると思います。すべては、神さまのお恵みによって与えられる賜物です。

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上記の証しは、『誰の声?』その3「神の声」:前半にあるものを記したものです。

申命記30:20
あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。

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