セブンスデー・アドベンチスト三田キリスト教会(聖書研究会)

九鬼隆義

九鬼隆義(くきたかよし)
~ 神戸初の商社を興し、クリスチャンとなった開明的リーダー ~

天保8年4月5日(1837年5月9日)~明治24年(1891年)1月24日)。九鬼家宗家14代。摂津三田藩(三田藩九鬼家)の第13代(最後)の藩主。
なお、三田藩初代の九鬼久隆は相続争いで鳥羽から三田の地に来ている。

九鬼氏の出自については詳しくはわかりません。遠祖は藤原鎌足か引く藤原姓を名乗り、南朝に奉仕していましたが、現在の三重県尾鷲市九鬼町(旧:南牟婁郡九木)の地に築城したことから、藤原姓を改め、九鬼姓を称したとされています。また、九鬼といえば、戦国時代に織田信長、豊臣秀吉の水軍の主将として活躍した九鬼嘉隆が有名です。

川本幸民(英蘭塾)を通じて福澤諭吉と親密になり、藩士を慶應義塾に学ばせている。明治2年(1869年)の版籍奉還により三田県が設置され、知事となった。1873年(明治6年)、近代港として発展が見込まれる神戸に居を移し、三田藩士も多くがこれに従った。生田川付け替えに伴う埋立地の買占め、転売で巨利を得た。この資金を基に、幕末から明治維新の混乱期による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、当時、藩校「造士館」の教授だった白洲退蔵白洲次郎の祖父)や小寺泰次郎(長男の謙吉は「三田中学校」〈現在の三田学園〉を創設した)らを抜擢、藩政改革を行い、「志摩三商会」(神戸市栄町3丁目、神戸初の貿易商社、総裁:九鬼隆義、社長:白洲退蔵、副社長:小寺泰次郎と岩根静蔵、社員:旧三田藩士)を設立した。これが成功し、不動産や金融業にも乗り出し、現在の神戸元町、三宮といった神戸港周辺の都市開発女子寄宿学校(神戸市山本通、神戸女学院の前身)の創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼした。また、町民、農民を対象とした郷学校市学校の設立も行っている。

県下諸藩に先駆けて西洋砲術による兵制改革(洋式訓練)を導入し、五十石以上の藩士に鉄砲(スナイドル銃、イギリス製)を購入させた。西洋文化に関心が高く、早くから洋風の生活(洋服の着用、牛肉食、断髪、洋書)に馴染んだ。当時禁制であったキリスト教にも強い関心を示し、1887年(明治20年)に摂津第一基督公会(神戸教会、今の三田市屋敷町にある摂津三田教会)でキリスト教の洗礼を受けている。この影響を受け、三田藩士にもキリスト教が広まった。

一度、訪れてみてください。旧九鬼家住宅資料館 情報(三田市役所)


すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
(使徒言行録2章38節)

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